2015年2月27日金曜日

31 イエスの地上での使命 ―その2―

*イエスが新たに転生するかについて話していたので、彼の再来を予告しているらしい黙示録のことを思い出しましたが、その見解は正しいのですね。

 ああ、そういうことだよ。

*でも黙示録では、地球の未来におけるさまざまな事象についても予告をしていますが、その多くが破局的なものです。そのような予言は的を得ているのでしょうか? この件について、少し説明していただけないでしょうか?

 前にも言ったと思うが、黙示録というものは、起こり得る地球の未来のヨハネによるビジョンの一つに過ぎない。ヨハネはその中で、地球で起こる可能性のある一連の事象――あるものは人間によって引き起こされ、他のものは自然の地質的変化の結果であった――と、その時期に人類が経験する事件や変革を見ることができたのだ。そして、彼はそれらを自分の能力の範囲内で、その時代の人たちに伝えようとした。
 全部の事象を一遍に伝えているので、すべてがあっという間に起こるという印象を与えるが、実際にはこれらの物事は千年単位の長い期間に及んでおり、最終的には人類の霊的な進歩が起こるのである。
 その時に、人間は、自分たちがどこから来てどこに向かうのかをはっきり知ることができ、人類よりも高次の存在がいるということを発見するだろう。神を筆頭に(ロゴス)キリスト、イエス、それに君たちの見知らぬ存在や名のない者たちが、人間を愛し、その霊的な成長と幸福とを見守ってくれていることに気づくことになる。

*黙示録ではキリストの再来を告げると共に、反キリストの王国のことにも言及していますが、反キリストはいるのでしょうか? これから生まれ変わるのでしょうか? それはいつでしょう?

 悪において全能な者などは存在しないと話したと思うが、害を及ぼそうという明確な目的意識で生まれてくる魂などもいやしない。悪いことをしてしまうことになっても、霊的なミッションのようにそれを目的にしているわけではない。どんな魂であろうとも、あらかじめ悪い意図を持って転生することなどないのだ。そうではなく、霊的に進化していないがために、生まれ出ると自分のエゴの衝動につき動かされて、悪に傾倒してしまうことになる。
 したがって、君たちが、反キリストという存在が極悪で、世を破壊してキリストやその支持者をやっつけることを目標にして生まれてくると思っているのだとしたら、そんな者は存在しないと言っておこう。

 
*反キリストが存在しないのだとしたら、黙示録ではどういう意味でこの言葉を使っているのですか? それとも、これも文書が改ざんされたせいなのでしょうか?

 ヨハネには、未来で起こる物事が、愛に反する利己的な価値観に支配された人類の巨大なエゴのせいに見えたということだ。またメッセージの一部は、後世に簡単に改変されないように隠語で伝えられている。
 こう考えれてみれば、反キリストという者は、未進化の人間の利己的で野心的かつ無慈悲な面を表した象徴的な存在ということになり、そのために兄弟たちに多大な害を与えてしまうのである。つまりそれは、エゴが人格化したものなのだ。
 また反キリストの王国というのは、エゴに支配された世界を表している。我々がキリストの教えを無条件の愛だと受け取るのであれば、反キリストとはキリストと反対のことをする者であり、愛と真逆の者のことなのだ。

 
*では、皇帝ネロやナポレオンやヒトラーなど人類に大きな痛手を与えた人物たちは、反キリストだったのですか、それともそうではないのですか?

 反キリストというレッテルを貼られたこれらの人物は、たいそう利己的な者たちで、野心や権力への野望につき動かされて、人類に多大な被害を及ぼした。だが彼らのような者は、歴史上には幾らでもいた。現在でも存在しているし、エゴが世の中で幅を利かせている限り、これからも存在し続けよう。世間の目にもっと重々しく怖く映るかもしれないだけで、彼らをどのような名で呼ぼうと、今より善くなるわけでも悪くなるわけでもない。

 
*黙示録に出てくる世の終わりというくだりは、2012年に人類の大惨事が起こるとしているマヤの予言を彷彿させるのですが。

 君は、西洋人がマヤの記録にそう書いてあると思いたい、と言いたいのだろうね。なぜなら、マヤ族の子孫にそのことを訊いてみるなら、そんなことはない、と答えるだろうよ。

 
*でも2012年には、人類を滅ぼすことになる天変地異とか第三次世界大戦の開始とか、何らかの終末的な出来事が起こるのでしょうか? 
 

 2012年には、そういったことは何も起こらない。自然災害は、今までと同じような頻度であり続けるだろうが、そのどれも、地球環境を破壊させるほど甚大なものではない。君たちは自然災害のことをすごく心配しているが、それらは君らには防ぎようがないだろう。それなのに回避可能な、人間の仕業である戦争や残虐行為などの事象については、ほとんど気にかけることがない。
 残念ながら君たちの世界で頻発している紛争は、現在とほぼ同じような傾向で継続するだろうし、愛についての意識が変わらない限り、この状況は続く。だが今のところは、地球や人類を破壊するようなことは何も起きない。

 
 思い起こしてみれば20世紀の終わりにも、ノストラダムスの大予言に基づく似たような強迫観念があって、世紀末から21世紀にかけていろいろな大惨事が起きると予告されていた。だが、2001年になっても、何も起きなかった。些細なことをおおげざにしたのは、多くの人びとの狂信や妄想や無知である。このようなお粗末な占いを信じてしまう人たちは、霊的進化という真に大切なことに集中できなくなり、恐怖や幻覚の狂気に囚われてしまう。
 先にも言ったが、近く到来する変化の根本的なものは霊的なもので、これは特定の年や日付に限定されるものではなく、何百年にも及ぶ時代を包括するものなのだ。2012年にこの世が終わると思っている者たちは、大いに失望するであろう。

 
*それから、世界のさまざまな場所で終末感が漂う超常現象が起こって――ルルドやファティマにおける出現のことです――大きな反響を呼びましたが、そこには真実の部分もあるのでしょうか?
 
 本当なのは、霊媒能力を持つ人と直接交信してメッセージを伝えようとする、霊的な存在がいるということだ。メッセージは個人的なものもあるし、全体に及ぶもののこともある。
 通常はそのような出現があっても、体験者に分別があり、その現象を言いふらせば精神異常者にされるのがおちだと知っているので、あまり大きな騒ぎになることがない。だがルルドとファティマのケースでは、それを見たのが子どもたちであり、彼らが目撃したことを自然体で話したために有名になったのだ。

*ルルドとファティマの場合に出現したのはマリア様だったと言いますが、それは本当ですか? どんなメッセージを伝えたのでしょうか?
 

 いや、現れたのは聖母マリアではない。もっともこれは、どちらでもいいことである。だが、女性の姿を借りて現れた高次の霊であったというのは確かである。
 もっとも、マリアだと名のったわけではない。名のることは滅多にないし、名前を言ったとしたなら、それは総称なのだ。それが聖母マリアだということになったのは、子どもたちが教えられた信仰の人物と結びつけたからか、そのヴィジョンの後で、大人たちがそれをマリア様だと子どもたちに思い込ませてしまったからである。
 もたらされるメッセージは一般的にとても明確で、人間が進化するためにこの世に存在していることや、エゴを解き放ち愛する能力を発展させねば進化ができないことなど、我々が話している内容に沿っている。また時には、個人や集団としての利己主義が将来全体的に引き起こすことになる、戦争などの未来の危険性についても警告する。

 だがこのようなメッセージを受け取ると、教会がしゃしゃり出て来て、自分たちに都合がいいようにそれを歪曲したり、利益を損なわれないように知られたくないことを黙殺するのだ。
 聖母マリアは特に利用価値がある。マリアとおぼしき人物が現れたのは、キリスト教へ改宗するように人類に呼びかけるためだと思わせて、さらに信者を増やそうとしたり、現状を保持しようとする。それに狂信と迷信が加わり、これらの場所は巡礼の中心地となる。こうして、信者の狂信と無知の犠牲の上に、莫大な儲けを得るのだ。

 
*教えてもらえるとしたらですが、ファティマの第三の秘密とは何でしょう?

 霊的世界が秘密にしておきたいと思ったなら、世に伝えることなどなかった筈だ。霊的世界からのお告げに鍵をかけてしまっておくのは、それを公にすると明らかになってしまうことを怖れる人間のエゴ、特に世の中で物的な支配権を持つ者たちのエゴのせいだ。しかし、このことで頭を悩ますのはやめなさい。そこで告げられたことは、他の方法で、もう開示されているからだ。

2015年2月25日水曜日

30 イエスの地上での使命 ―その2―

*人類が救済されるかはつぎのイエスの転生次第なのですか? それとも、イエスは過去にも転生していたので、また生まれ変わらなくても人類を救うことができるのでしょうか?

 「救済」というものを人間が愛に向かう霊的な変革と捉えるのであれば、ある特別な高次の魂の転生いかんにそれが左右されるわけなどない。同時期に大勢の人が変われば集団的に愛の方向へ善い変化を起こせるので、それを「人類の救済」と呼べるが、それは特定の人によるのではなく皆によるのだ。
  すでに話したが、霊的に進化するかは、個人が自分自身で決断して行動することによって決まるのである。イエスや他の高次の存在たちに、進化の劣った人間を成長させる義務を負わしてはならない。進化した魂たちは、自らの手本を示すことで一般人を啓蒙する手助けはできるものの、進化するかどうかは個人的かつ自発的なものなのだ。これに関しては、全能の神でさえも君たちを強いることはない。

*イエスの使命への理解が足りないために、彼が戻ってくれば僕たちの罪業をあがなってもらえると、思い込んだ部分もあるかもしれませんね。

 その通りだ。イエスの犠牲によって全人類が救われるのだとしたら、人は善を成すか悪を成すかにかかわらず、また何の徳もなく自分の意に反してまでも、救済されてしまうことになる。地球に高次の霊的な存在たちがやって来るのは、いつも同じ目的のためだ。それは、人類が自ら自覚して成長できるように、その指導をするためなのだ。だが、それをするかどうかは人類にかかっている。

*イエスが十字架上で死んだことと人類の救済とが無関係なのだとしたら、なぜそのような大きな犠牲を払う必要があったのでしょうか?

 イエスは殺されるかもしれない危険を冒すことを知っていたが、人類に愛の教えを伝えるためにこの世に生まれ出ることを選んだのだ。しかもイエスは、人生のある時点で見せられたビジョンによって、事態がそのまま進展すれば磔にされて処刑されるとはっきりと知らされ、引き下がる選択も与えられている。高次の霊的な世界では自由意志が完全に尊重されているので、誰にも――たとえそれが自分たちと完璧に似通った存在であっても――何の強制もしない。


*殺されることがわかっていたなら、どうしてそれを避けなかったのですか? これは、あなたが「魂の法則」に反するとする一種の自殺行為に当たりませんか?

 殺してほしかったわけではないし、磔にされて死んでみたかったわけでもない、というのが君の質問への答えだ。だが、彼が一個人として勇敢で、どうなろうと最後まで愛の教えを広めるという手本を示したかったので、それを続けることにしたのだ。
 すでに言ったが、イエスの功績は十字架にかかって死んだことではなく、神の使者としての任務を果たした果敢さにあるのだ。そうすることで、最終的に殉教か処刑となって甚大な苦痛を被ることを知っていたにもかかわらず、あえてその代償を引き受けたのだ。


*イエスが僕たちの罪をあがなうために来たのではなかったのなら、彼は旧約聖書が予言する救済者なのですか、それともそうではないのでしょうか?

 イエスは確かに旧約聖書が予告した使者だが、カトリック教会が信じさせた目的やイスラエルの民が期待した目的のために来たかどうかはそれと別問題である。
 イスラエルは、彼らを外国の支配から解放して征服者の国に変えてくれる、ダビデ王のような政治的な君主を期待していた。だがイエスはそのために来たのではなかった。彼の使命は全人類に及ぶもので、物的な統治者としてではなく、霊的世界の真相を伝える神の使者としてやって来たのだった。
 間違った馬鹿げたお門違いの信仰の中で道を見失って混乱している人類を、暗闇から助け出すために来たのである。イエスは、神や人間の進化について混迷を極めて完全にエゴに囚われてしまっている人類に、本物の霊性進化の道を示すためにやって来たのだ。

*歴史に残る偉大な預言者やアヴァター(神の化身)の中には――モーゼやクリシュナや仏陀のことを考えているのですが――イエスの前世であった人もいるのでしょうか?

 君が名を挙げた人たちは確かに皆イエスと同じ使命を担って霊界から遣わされた神の使者だったが、誰もイエス自身ではない。彼らは皆同じ大義のために仕えたわけで、彼らが生まれ出た社会のメンタリティーの許容度においてだが、仕事もそこそこ実を結んだのだ。

*イエスと仏陀はこの地球にいたことのある最も進化した存在だと言えるでしょうか。

 君たちが知っている者たちの中では、そう言える。

*でもユダヤの民は、イエスがモーゼの律法に反する考えを持っているとして、彼を疎外したのではないですか

 全員がそうしたわけではない。イエスを疎外したのは、ユダヤ教の僧職と彼らに影響された者たちだ。それにイエスの考えがモーゼの法に反していたからではなく、それがユダヤ聖職者たちが人民に定めた法律にそぐわなかったので、モーゼのせいにしたのだ。イエスはモーゼの律法を覆しに来たのではなく、捏造や改ざんされた箇所から虚偽を振り払い、元来授けられた姿で再提示をして、それを遵守するために来たのである。

*十戒のことを話されているのですか?

 十戒とは、温存することのできたほんの一握りのもののことなのだ。もっともその中には初期の意味合いが変えられて、歪められてしまったものもある。だがこのことに関してはもう充分話したから、ここで繰り返すのはやめとしよう。
 真にモーゼの手になるものは短く簡潔であったが、霊的な観点からは真実であった。モーゼの五書は彼のものだとされているが、彼の死後かなり経ってから書かれたもので、思いあがった作り話やユダヤ民族の支配者たちが命じたいまわしい逸話に満ちていて、彼とは無関係だ。だが、有無を言わせずにそれらを正当化するために、神やモーゼのものとしたのだ。

*イエスのことに戻るのですが、イエスが最後に地上に転生していたのは二千年前なのでしょうか、それとも僕たちが彼だと気づかなくても、その後で再びやって来ていたことがあったのでしょうか?

 最後に転生したのは二千年前にイエスとしてであって、それ以後は地球で生まれ変わるためには戻ってきていない。

*イエスは現在すでに地上に転生していますか?

 いや、まだだ。でも、あともう少しだ。

*生まれ変わろうという決断やそれをいつにするかは、イエスが決めるのですか? それともイエスの上位にいる存在が決めるのでしょうか?
 
 地球の進化に求められていることとメッセージが最も浸透し得る最善の時期を把握した上で、彼自身がその自由意志で決めるのだ。

*イエスの転生まで、あと正確にどのくらいかかりますか?

 その質問には答えられない。でも、そう遠くない未来に生まれ変わるであろう。それは物事がどのように進展していくかによるのだ。だが、この世代はまだ無理だ。とはいえ、その下準備をする者たちが、しばらく前から転生して来ているがね。

「その下準備をする者たち」とはどういう意味ですか?
 
 霊的な任務というものは、個人的な孤独な仕事ではないということだ。行き当たりばったりに進めるものでもなく、それが実行に移されるかなり前から、真剣かつ詳細に計画されるものなのだ。それは人類の霊的進化を目的にした集団的な救援であり、イエスほどの進化を遂げてはいないが大勢の魂が参加する。主役となる使者が活躍する前、最中、またその後に、ある者は霊的な次元から援助し、ある者は物理的次元から助けるのだ。

*どういう準備をするのですか?
 アヴァターが転生する際にメッセージがより広く行き渡るように、霊的な教えを少しずつ知らしめて人びとに受け容られやすくするのだ。

*進化した存在たちが増えるためには、地球はどのような環境にあるべきなのでしょうか?

 先にも言った通り、霊的な支援のミッションというものは今回が初めてのことではなく、過去の時代に行われた仕事と関連している。同じ目的を持った同じ魂たちが、さまざまな時代に生まれ変わっているのだ。進化が遅れている者は、愛に関する基本的な知識を学ぼうと努め、より高次の者には、自分の愛の能力を発展させる責務と手本となって遅れた者たちに愛について教えていく責任がある。
 教師的役割を果たす魂たちが進歩するにつれて、彼らの任務はより奥深いものとなる。それに伴い、遅れている魂たちも進化していくので、霊的な教えをより深く理解して実行しようとする魂の数も増え、彼らも教えの伝達者となっていく。
 このような霊的な改革の波ごとに、より多くの魂が次々に進化を目指す仲間入りをし、進んだ魂の数もだんだんと多くなっていく。それゆえ、進化した魂がより多く生まれ出ていることは、人類の精神レベルが高まっていることを反映している。

 *今のあなたの「進化した魂がより多く生まれ出ている」という言葉で、イエスが言ったとされている福音書の「私よりも、もっと大きな業を行うようになる」という一節を思い出しました。でもあれから二千年も経ったのに、イエス以上のことを成し遂げられた者がいないという点については同意されますよね。イエスは間違えてそんなことを言ってしまったのでしょうか、それともこの部分も歪曲されてしまっているのでしょうか?

 ここでイエスが言及していることは、以前すでに話したことだ。人間というものは、充分に進化しさえすれば、この地球に生きていたイエスと同レベルに到達することができる。さらに、魂の進化は留まるところを知らないので、彼よりも高次の段階に達することもできる。そうなれば、イエスが地上にいた時と同様かそれ以上の能力を持つことが可能になるという意味なのだ。
 君たちの惑星でいまだに彼ほど大きな愛の能力を発揮できた者がいないのは、地球の最も進んだ者でさえそのレベルに辿り着けるほどの時が経っていないということだ。君たちには長い年月に思えるかもしれないが、霊的な視点からの二千年はほんのひと時に過ぎない。したがって、イエスは間違ってそう発言したのではないし、それは歪曲されてもいない。ただ、まだそれが実現する時期になっていないということだ。

 *多くの人が自分が霊的に進化していると思っていて、神の使者であると言っていますが、どうなのでしょう?

 ほとんどの者がそうではない。注目を浴びたいあまり有名になりたいという願望を述べているに過ぎず、真実ではない。
 高次の存在は、その愛する能力と謙虚さや他者の考えや信念をどれだけ尊重できるかで見分けることができる。
 神の使者を名のる大半の者が自慢をして、その状況を名ばかりの優越性で人を圧倒して利益を得ることに利用する。人よりもすごいのだと自慢して優位に立とうとする者は謙虚さに欠けており、自由意志を尊重することができない。それを見れば、彼らが口ほどでもない者であることがわかる。

2015年2月23日月曜日

29 イエスの地上での使命 ―その2―


イエスの地上での使命 ―その2

*霊的に成長する上で転生がそれほど重要なことだというのに、イエスがそれを直接はっきり話さなかったことに驚きを覚えているのですが。

 もちろん話したとも。「魂の法則」についても説いたし、霊的な進化と関係することは、全部わかりやすく明瞭に教えたのだよ。君たちが持つ彼についての情報が正しく完全だとは限らない。

*根拠を示せる文書は残っていますか?

 君たちの世界で、イエスの人柄や功績について本当のことを知っている者は誰もいない。彼の思想や人物像や伝達された教えのほんの断片が残っているに過ぎない。しかも、僅かに保存できた彼の功績でさえも、その大半が改変、歪曲されてしまい、当時の支配層やその後世界を支配してきた者たちにより、人びとの目から隠されてしまった。そして、今でもそうされている。真実が明らかになると自分たちの利己的な利益が損われると考えているので、一切の事実を知られまいとしているのだ。

*でしたら、そのような知識は何も新しいものではないのですか?

 もちろん違うとも! それは、有史以来、地球のさまざまな場所で伝えられてきたのと同じメッセージだ。伝達したのは実際にはいつも同じ霊性の使者たちで、地球の平均よりも進化しており、「愛の法則」と他の霊的な法則を熟知した者たちだが、転生した時代によってそれぞれ異なる名前で知られている。

*でも、どうしてそれを知り得ることがなかったのですか?

 もう、話したではないか。霊性の使者たちが帰ってしまい、その教えが霊的に劣った者たちの手に落ちると、彼らによって、当初の教えの中に利己的な考えが織り込まれてしまったのだ。元の伝達者たちがいなくなっていたので、改悪を止めることもできなかった。
 イエスという特定のケースにおいても、それと同じことが起こったのだ。時の経過と共にイエスの教えは歪められていったが、それは常に、支配者たちを有利にするためか、彼らの利権を損なわないようにするためだった。彼らは書記を雇い、本当の教えを徹底して改変した。そうして、支配者たちは人民に知ってほしくないことを消去し、書いてあった方が都合がいいことが加筆されたのだ。

*消されてしまった教えはどのようなものですか?

 ここで一緒に学んできた教えと同じものだ。魂の転生についての知識や、進化の法則などである。自己の人生と感情に関しては自分で決定できるという各人の権利も該当する。動物も含む最も弱く無防備な存在たちの生命と権利を保護して尊重しようという呼びかけも同様だ。
 つまり、あらゆるエゴの形態―中でも強欲・貪欲・憎悪―と虐待や搾取などを糾弾して告発しようとする教えのすべてである。このような教えは全部、元々の意味がわからないように、意図的に改変されたり消し去られたりしたのだ。

*イエスは自分の教えがいじられないように霊界から防ぐこともできたのに、なぜそうしなかったのですか?

 それは自由意志の侵害となってしまうので、イエスであろうと他の霊界が遣わす使者であろうと、誰も、世界を望み通りにすることができないのだ。唯一できるのは、人間のエゴによって台無しにされてしまったものを再建するために再び生まれ変わることだ。

*それは、イエスがもう一度地上に生まれ変わるという意味ですか? 二度目に戻ってくるのですか?

 そういうことだが、二度目ではなく、何度も来ているうちのもう一度に過ぎない。

*では、キリストが再来するという予言は本当なのですか?

 キリスト(ロゴス・キリスト)は、遥か以前に人間の段階を超えることのできた大変進化した存在なので、もう転生はしないと話したろう。キリストは、霊的な使命を帯びて転生している人間の進化段階にいる魂たちに働きかけるのだ。
 だが、イエスが転生するというのは本当だ。もっとも、すでに言った通り、二度目ではないがね。でもそれは、一部の人が待ち望むように、カトリック教会の陣頭に立つためではない。しかも、キリスト教徒を自認する多くの人たちからは、歓迎されないであろう。特にその上層部の者たちにね。なぜならイエスが戻るのは、二千年前にユダヤ教会を糾弾した時のように、彼の名においてキリスト教会が創りあげたあらゆる欺瞞と失態を暴くことも目的の一部になっているからだ。

*前にイエスがもう一度地上に生まれ変わるかをあなたに質問した時には、キリストの例で返答されて(「魂の法則」参照)、今僕がキリストのことを質問すると、イエスの話をするのはどうしてですか? 二人は別々の存在なのでしょう?

 それは、君たちがイエスとキリストとを同一視しているからだ。確かに、イエスが再び転生する際には、実際にキリストからインスピレーションを授かることになる。しかしキリストは、他の大変進化した存在たちが霊性進化の任務遂行のために生まれ変わる必要が出る際にも、インスピレーションを与えることができるのだ。

*お言葉からすると、イエス以外の人たちもキリストに感化されていたようですね。

 当然だ。

*キリストは、救世主イエスが転生していない時期には、彼ほど進化していない人たちにもインスピレーションを与えられるのでしょうか?

 もちろんだ。というのは、キリストの場合も含めて、進化した存在たちは皆、特定の時代のたった一人にだけインスピレーションを与えるのではなく、イエスほど高いレベルではないとしても、無条件の愛を動機にして行動するすべての存在を感化するものなのだ。
 転生する人間の進化の程度により、キリストやその他の高次の存在たちとの繫がり具合が決まる。多くの者が自分を重要人物だと思いたいがために「選ばれた者」になりたがり、愛そうとするそぶりをするが、エゴを放棄しようとはしない。霊界は、愛の道を進もうとする人には誰にでも手を差し伸べる。しかし、エゴが動機となって行動する者は、霊的に進化した存在たちからの応援は期待できない。
 それゆえ、「選択」とは自分自身でするものであり、それは、エゴか愛かのいずれかを選び取ることである。どんな影響を惹きつけるかは、自分が選んだものによって違ってくるのだ。

*キリストとイエスという組み合わせを、どう理解したらいいのでしょう? キリスト意識の状態とでも考えるべきでしょうか?

 キリストというのは高度に進化した霊的な存在で、君たちと同じように、独自の意志と個別性をもって存在している。それゆえ、ある意識状態という以上のものだ。意識状態というのは存在そのものではなく、ある存在の表現形態だからだ。
 人がキリストと繫がると、その人の意識は疑いなく、独りで到達できる限界よりも、ずっと広い範囲にまで拡張する。この超高次の存在からインスピレーションを与えられると、自分の力しかない時よりも確固とした勇気と決断力をもって行動できるので、取り組んでいる使命に役立てられるのだ。

*神以外で一番進化している存在は何ですか? その存在は転生していますか? どのような具体的、または全般的な使命があるのですか?

 進化の段階においては、キリストやイエスが神のすぐ下の存在だと思って君がそう訊いているのなら、あらかじめそれは違うと言っておこう。霊的な世界は広大で、キリストやイエスよりも高度に進化した存在は無数にいるのだ。そのような存在が生まれたのは、私にも進化の歴史を遡れないほど遥か以前のことだが、神は常に存在していたし創造をやめたことなどないので、その起源もわからない。
 君たちには制約された認識力しかないので、これらの存在に可能な最大の支援法が、人間として生まれ変わって地上に降りることだと思っている。だからイエスが神の生まれ変わりだと思ったりして、神そのものが人間に転生してもおかしくないという考えに至ってしまうのだ。
 君たちの限られた視野では、超高度に進化した彼らの力がどこまで及ぶのかは、想像だにできない。彼らには、星の数ほどある世界と人類の創始者及び管理者として、想像し得るよりもずっと大きな責任があるのだ。一人の人間に生まれ変わることは、その潜在能力が雀の涙ほどの力に制限されることなのだ。
 したがって、彼らが個人の人間として生まれ変わることはない。なぜならそれは人間に、蟻として生まれ変わって蟻の生活を送るように期待するのに等しいからだ。そのため、そういう使命を引き受けるのは、高次の存在の支援を常に受けているものの、進化程度が君たちに近い存在たちなのだ。

*イエスが神やキリストの直接の生まれ変わりでないのなら、なぜ「私は道であり、真理であり、命である」と言ったのですか?
 

 君たちが知っているその文言が、そのままそっくりイエスの口から出たことはない。言わずとも普遍的であったメッセージを、自分個人のものにしてしまうことはできないからだ。
 それは、「私は、霊的世界からの使者としてあなた方に霊性進化の道筋を示し、霊的世界の真実と魂の命の真相を教えにやって来た」というメッセージを簡略化したものに過ぎない。

*あなたはイエスが何度もやって来たことがあると言われましたが、それは、ナザレのイエスという人物として生まれる以前にも幾度か転生したことがあるという意味ですか?

 もちろんだ。現在の君たちの公の歴史に書かれてもおらず、認知されてもいない古い時代に、地球に生まれ変わったことがある。

*それらの人生では何をしたのですか? 

 イエスは君や皆と同じであった。そして、充分に進化を遂げてから、霊的なメッセージを携えてやって来たのだ。

*でも、イエスとしてやって来る以前にも、過去に似たような使命を果たしたのではないですか? 彼のしたことが何か記録に残っていないでしょうか?

 彼の任務は歴史のどの時代においても、人の魂に刻まれていく霊的な仕事であった。歴史の書物にその記述がなかったり、歪められてしまっていても、それが無駄になってしまったわけではない。なぜなら、霊的な教えに心を掴まれた魂は、その教えを絶対に忘れることがなく、以後の転生でそれを表明していくからだ。
 イエスは、さまざまな時代の異なる場所に、愛のメッセージをもたらした。イエスは、この世の諸悪の根源がエゴであることを各時代の人びとに伝える方法を熱心に探し続けた。また、魂の諸法則と霊性進化の行程を人びとが理解できるように、基礎的な霊的な知識をできる限りやさしく伝えることにも力を尽くした。しかしながら、その時代の大部分の人たちは、今の時代と比べると知性においても感性においても大変劣っていたので、彼の提案した改善案が実施されることはなく、彼が過去の世で認められることもなかった。人びとは、超常現象のように思えたイエスの数々の行いに惹きつけられはしたが、彼が布教した意味深い霊的な教えを汲み取ることはなかった。イエスが特別な存在であることはわかっていたのだが、彼を理解できなかったのだ。彼のことを理解することができたのは、最も身近なわずかな弟子たちだけだった。
 それゆえ、同じ仕事を続けていく必要がある。そのため、当時イエスを理解できた者たちが、かつて進化不足のために教えがわからなかった人たちを助けようと、現在、継続して任務を担っているのだ。

2015年2月20日金曜日

28 愛の法則から見た十戒 10

*今度に三つの戒律を分析してみたので、残りは「不純な考えや願望を抱いてはならない」のみになりました。これについてはどうですか?

  そんな戒律は存在していない。申命記にすら記載されておらず、後世の発明品である。プロテスタントのキリスト教会にも見られない。エゴなく行動するのも難しい人間に、エゴ的な考えも持たないように要求すること自体が望み過ぎというものだろう。
  しかも「不純」とされるのは、おそらく、教会の法規で許容外である―つまり婚姻関係以外の―性的な願望を指すのだろうが、この定義もかなり曖昧である。この戒律は、感情と思考や性における自由を抑圧しようとした人間が創り上げたものなのだ。


*三つの戒律を一つにまとめたり、一つを除いてしまったので、十戒が七つになってしまいました。

 一体誰が十個でなければならないと言ったのだね? だが構わなければ、とても重要で配慮すべきに思える助言が私にはあと三つほどある。

*どのようなものですか?

 「自由意志を尊重せよ」「霊的裁きの法則を尊重せよ」「個人的または集団的な争いごとを平和に解決せよ」である。もめごとを平和に解決するには、個人レベルでも集団レベルでも公正であり、他者の自由意志を尊重しなければならないので、この三つの助言はお互いに深く関連している。

*それぞれの意味がはっきりするように、もう少し深く取り上げてくださいますか?

 「自由意志の法則」と「霊的裁きの法則」がどういうものかを説明した時に話してはいるが、もう一度見てみよう。
 「自由意志を尊重せよ」は、他の人たちの自由を尊ぶことである。つまり、その人たちの意志、意見、信仰、感情や人生における決断を尊重するということだ。感情における自由も、自由意志の一部に過ぎない。誰も誰にも属さないので、誰にも他者の意志を奪う権利はないし、他者に代わって決断することもできない。
 「霊的裁きの法則を尊重せよ」は、他の人たちに、自分にしてほしいことをしてあげることであり、自分にしてほしくないことはしないことである。なぜなら、実際のところ、他者にすることはすべて自分自身にすることになるからだ。そしてこのことは、個人レベルにおいても集団レベルにおいても、守られねばならない。

*個人レベルのことはわかりますが、集団レベルとはどういうことですか?
 

 人類全体が和合して共存するためには、正義と自由意志を尊重してそれを実践して見せねばならず、社会機能や統治形態、さらに法律、経済、教育、文化などに反映させないといけない。理論上では、自由と正義の原則が法令化されている国々においても、実際にはそれはエゴによって反故にされ、ただの紙切れに成り果ててしまっている。

*例を挙げてくださいますか?
 
 歴然とした奴隷制度はどの国においても不法とされているが、事実上は全人類が、搾取と虐待とを黙認し助長する経済・政治システムの下に統治されていて、奴隷制なのかと見違えるほどだ。多くの国が外見的には民主主義であるが、実はその内に、国民に奉仕するふりをしながら逆に利用して、利己的な目的を果たそうとする政府が潜んでいる。平和を希求するふりをしながら戦争を推し進め、他の選択肢を探そうともしないくせに、それが唯一の紛争解決の手段であると思わせる。他の方法を模索しないのは、エゴ、野心、貪欲に目が眩んで、代償を顧みずに突き進もうとするからだ。
 だが、その気になって他の人たちを尊重して理解しようと努め、自分の利己的な行為を放棄する心構えを持てば、常に代替策はあるものだ。だから、「個人的または集団的な争いごとを平和に解決せよ」という助言を頭に置いておけば、君たち自身や他の人たちのために、多くの苦しみを回避してあげられる。絶対に、暴力、脅迫、恐喝に訴えてはいけない。また、自分に理があると思っている場合でも、自分の意志を他者に押しつけてはならない。

*ちょっと疑問が出てきてしまいました。万が一、襲われたり、虐待されたり、脅迫されるなど、一言で言うと、自分の自由意志が他者に脅かされるような事態になった場合には、争いを避けるためにその暴力を許容すべきでしょうか、それとも防衛する権利があるのでしょうか?

 もちろん防衛する権利がある。身を守る権利があるだけではなく、そうせねばならない。他の人たちの自由を尊重するのと同じように、自分自身の自由も守らねばならないからだ。
 争いを避けるというのは、一番強い者の意志に屈することではなく、暴力を避けつつ解決する、という意味だ。もっとも、相手のレベルまで身を落とす必要もない。

*この点が明らかになるような例がありますか?
 
 夫から虐待を受ける女性がいるとするなら、どんなことがあっても絶対に我慢するべきではないが、これは、相手と同じレベルになって暴力を仕返すという意味ではない。加害者から離れてDVを告発し、正義の裁きに委ねるのが理にかなっているだろう。

*でもそうしたら、加害者はきっと怒り狂って、暴力をエスカレートさせて、争いもさらに激しくなるかもしれません。そうなると、平和に争いごとを解決するという助言に反してしまいますが、これについてはどうでしょう。

 暴力は被害者の態度からではなく、自我を押し通すことのできない加害者によって生み出されているのであるから、ここで平和に紛争を解決するという助言を適用すべきなのは加害者であり、被害者ではない。平和主義であるのと従順になることを勘違いしないでほしい。両者は違うものだ。ここでは平和主義者になることを勧めてはいるが、従順になるように言ってはいないのだ。
 両者の違いがわかるためには、兵役が義務付けられている国でそれを拒む平和主義者がいい例となる。こういう人は、ふつう不従順だとされないかね? つまり平和主義者とは、暴力に対して不従順な人であり、確固たる信念を持って首尾一貫した行動をとる人なのだ。そのような人は、自分の良心が正しくないと思うことを強制されて行うことはないので、自己の自由意志が侵害されないように戦っていることになる。

*集団的にも、たとえばある国が他国から侵略されたとしたら、防衛する権利がありますよね? 

 防衛権はあるが、それは常に平和的な解決策が尽きてからだ。
 ガンジーの例を見てみれば、平和主義者と従順な者との違いが理解できるだろう。彼はまた、暴力に訴えなくても、崇高で公正な理念に対する信念と堅固な意志さえあれば、大きなことが成し遂げられることを証明してくれている。
 大概の戦争や武力抗争は一朝一夕に起こるものではないし、それを引き起こしたいと思う人たちも少数派である。武力衝突の背後には一般的に、少数の者たちの利己的な関心-つまりある物を独占したいという野望―があり、人びとを騙して汚い仕事をさせるのである。好戦的な野心家どもを指導者の地位から追放すれば、すべての戦争や暴力的な紛争が回避できることだろう。

*でも、ガンジーが成し遂げられたことは例外だと思うのです。たいてい、いつも強者が弱者を服従させます。それにそういう方法でも、多くの犠牲者が出ました。
 戦争になっていたら、もっと多くの犠牲者が出たであろう。しかも君の言う通りであっても、人生の意味は政治的な闘争にあるのではなく、霊的進化にあるのだ。
 それに、ある国が他国を不当に侵略していると君たちが思い、結局は強者が弱者を支配するのだとの結論に至ったとしても、今日の被侵略者が昨日の侵略者であるかもしれず、過去にやったことを経験している可能性もあるのだ。人類の歴史を振り返れば、民族間の闘争は途切れることなく続けられてきたが、時代によって、抑圧者と被抑圧者の立場は入れ替わってきた。抑圧された民族は、ごくたやすく抑圧者となる。以前そうでなかったのは、抑圧者になりたくなかったわけではなく、単になれなかっただけだからである。
 そしてこれは、全民族、全人種に、野心と貪欲や強欲に満ち溢れた非常に原始的なエゴを持った魂が転生していたからであり、誰が一番富と権力を掌握できるかと互いに争い合っていたからである。これまで人類を互いに争い合うように駆り立ててきたもの、そして現在においても駆り立てているものは、野心、貪欲、強欲、そして狂信である。だが、どれほど強大な帝国であったとしても、どれも、時の流れと共に崩壊してしまった。愛の基盤がないものは短命なのだ。

 以上のことから学びとるべきことは、野心と貪欲や強欲の姿を借りたエゴは多大な苦しみを生み出し、誰もその苦しみを味わいたくはないので、各自が心の中からエゴを排除すべきであるということだ。この教訓を身につけたあかつきには、国家、民族、人種、宗教の間で、再び争いが起こることはないであろう。転生する魂には、いかなる動機も兄弟を傷つけることを正当化できはしないし、そうすれば自分自身を傷つけることになると、はっきりわかっているからだ。

2015年2月17日火曜日

27 愛の法則から見た十戒 9

*次の戒律は、「盗んではならない」です。

  そう、人は通常、盗むということを、誰かからその人に属する物的な所有物を無断で取り上げる行為である、窃盗のことだと考える。そのため、スリや、銀行や宝石店などの店舗を襲う強盗などのことを泥棒だと見なしている。
  しかし、ペテン、詐欺、恐喝などで、労働者からその報酬に見合う賃金を取り上げて私腹を肥やす者や、人の損害、苦しみ、欠乏などの犠牲の上に権力や富を貯える者は、司法によってその罪が暴かれることがなくても、実は最たる泥棒なのだと言っておこう。
  したがって、「盗んではならない」という第7戒律は、「偽りの証言をしたり嘘をついてはならない」という第8戒と「人の財産を欲してはならない」という第10戒と共にまとめられる。このどれもに、自己のエゴを満たすために人に損害を与えるという意図があるからだ。そう考えてみると、これらの三つの戒律を一本化して、「エゴに突き動かされて、他者に損害を与えてはならない」という助言にすることができる。

 最も物的なエゴの形態は、強欲、貪欲、野心である。これらのエゴは、他の人に及ぼす弊害には目もくれずに、自己の富と権力の貯財に夢中にならせる主犯である。だが、人間関係のテーマで扱った、執着、嫉妬心、憎悪、憤怒、独占欲、恨み、無念などのエゴ的感情のように、物質主義的ではない他のエゴの形態も、他者を傷つけるものだ。

*他の人に損害を与えずにお金持ちになった場合でも、霊的な負債を背負ったり、「エゴに突き動かされて、他者に損害を与えてはならない」という最大律を侵してしまうことになりますか?
 掟を破ってはいないが、進化した魂ならば、富を欲することもないし、金持ちになろうと時間や労力を無駄遣いすることもないので、大きな進歩を遂げてもいない。進化した魂は、そのような状況には全く惹かれないのだ。
  人に直接的な損害を与えなくても、自由になる物的な富と権力を隣人の支援に使わずに、自分の物欲を満たすためだけに使うなら、成せたであろう多くの善を施さなかったことになるので、他者を助ける好機を無駄にして、自分自身も愛において進歩するチャンスを逃したことになる。ある魂が、公益に役立てるように物的な富を望みながら転生しても、生まれた後でそれを自分のエゴのために使ってしまえば、そのミッションは失敗なのだ。
  いずれにせよ、君たちの世界では、財産を相続するとか宝くじに当たるとかでもしない限り、誰にも損害を与えずに金持ちになることは難しい。君たちの経済や商業のやり方は、最も強い者の理論に支配されているので、そのような好戦的なシステムにおいては、それに毒されずに、善人が成功するのは至難の業だ。


明確に言うと、どういうことでしょうか?

  君たちが資本主義と呼ぶ、地上に君臨する経済システムは、人間のエゴから生まれた制度であり、この戒律とは始終一貫して矛盾しているということだ。なぜなら、それは人間の権利を全く考慮することなく、止めの効かない法外な富の蓄積を追い求め、それを認めているからである。

*僕は経済のことはよくわかりませんが、マクロ経済の指標が多過ぎて、国際経済を推進しているものを理解することは、とても困難な気がします。多くの格差や不正、貧困が蔓延していて、それが益々ひどくなっているように見えますし、今日のような経済危機の時代にはそれが悪化しています。この現状では、人類のより良い未来を垣間見ることは難しく思えますが、どうしたらいいのかもわかりません。
  本当は見かけよりもシンプルだ。全体がとても複雑で、物事がそうなっているのは誰のせいでもないと思わせているのは、君たちに解決策がわからないようにして、責任者を追及できないようにするためだ。
 
  現在の世界の経済システムは、ピラミッド型組織の大企業のようだ。それは、利子が増大してゆく巧妙な貸付制度に基づいており、利潤を得る仲買人の手を得るたびに利子が増える仕組みになっている。そして、一番最後に貸付をせずにお金を借りるだけの者は、借金とその利子とを自分自身の仕事と生産品で返さねばならないので、押しつぶされることになる。このような人が、ピラミッドの底辺にいる大多数なのだが、このシステムは彼らの労力で維持されている。
  残りの者は、何であろうと安く買って高く売ることで儲ける投機市場を創り上げ、高利貸しと投機で生きている。ここで売買される商品の中には、農産物、畜産物、海産物、鉱物や工業製品のような現物もあるが、他のものは株式、証券、投資信託など、「金融商品」と呼ばれる架空の産物である。
  実際には、現状の物事はごく単純である。少数の者が貨幣を造幣する権利を独占してしまっているのだ。つまり、お金を造る機械を持っている、ということだ。ただ同然でお金を生み出すことができ、他の人たちにはそれに利子をつけて貸し出しているので、皆が彼らに借金を負ってしまう。彼らは、安く買い占めて高く売りさばく特権的な情報を常に持っているので、自分たちが創り上げた市場を操作して、皆を思惑通りに動かすことが、このシステムでは可能なのだ。

*このことは、経済危機と関係しますか?
  その通り。経済危機というものは、偶然に起こるものではなく、ピラミッドの頂点から誘発されるものだ。手始めに、多くの人の借金が増えるように、低利子でお金を貸してあげるのだ。ピラミッドの下層にいる人たちには、数段階の仲買人を経た後に、より高利でこの貸付金が回ってくるが、このお金を使って商売をしたり財産を購入したりするので、経済が活性化して消費が増える。
  これがいわゆる好景気に当たる。この時期は、表面的には裕福であるが、すべてが借金で成り立っていて、それに利子をつけて返済しなければならないので、上辺だけのことである。
  上層部の漁師たちは、沢山の魚が餌に食らいついた―つまり、多くの人が借金を背負った―のを見届けると、釣り糸を引き上げて、獲物を収穫する。これは、ある時期に財布のひもを締めて、貸付金の流れを止めてしまうという意味だ。すると、資金が不足する。借り入れをするためには、ずっと高い利子を支払わねばならなくなり、それまでに許与されていた貸付金の利子も高額になる。
  何もかもが、経済活動の妨げとなる。負債者は借金を返済できなくなり、財産を没収されてしまう。国民の生活レベルは顕著に悪化するが、一方で、それまでに貯えられた富はこのシステムを牛耳る者たちの手に渡る。こうして金持ちは益々金持ちになり、貧乏人はより貧乏になる。経済危機はこのようにして起こるのである。

*これには一体、どういう解決策があるのでしょう?
  解決策は簡単なものだ。各人が自分の置かれた立場で、エゴを、つまり貪欲と強欲とを放棄し、分かち合うように努めるのだ。他者を自分自身のように見て、その人の幸福も自分のもののように気にかけてあげることだ。皆がこの一歩を踏み出すならば、世界は瞬く間に変わるだろう。
  現状の経済システムが保たれているのは、人間の強欲や貪欲、野心がふんだんで、愛や寛容が乏しいからだ。ほとんどの人が分かち合おうとしない。多くを所有する者は、自分が持っているもので満足しない。自分の豊かさを持たざる者と分かち合おうとはせず、他の人びとを犠牲にしてでも、それ以上のお金と権力とを、さらに手に入れることを目指す。また、大勢の持たざる者たちも、上層階級の者のように、成功して金持ちや権力者になりたいと望むので、彼らが持てる者の立場になれたとしても、同じことしてしまう。
  それゆえ、上部の者たちを入れ替えるだけでは、不充分である。我々全員が本当は霊的な存在で、同じ霊的進化の道を歩む仲間であり、愛を体得して幸せになるという目標を共有し、そのために互いを必要とし合っていると認識できるような、人類全体に及ぶ集合的な意識改革が起こらなければならない。
  富を溜め込んでも幸福になる役には立たないが、生きるために必要なものがなければ苦しむことになる、と気づくことが肝心だ。こうして、豊かにある物を分け合えば誰も損はしないし、皆が恩恵を受け取ることになる。だが繰り返しになるが、そのためには富の蓄積を放棄し、分かち合おうとしなければならない。


*素晴らしい展望ですが、まるで夢物語です。もっと具体的な対策があるべきだと思います。

  対策の処方箋を望んでいるとしても、そんなものは存在しない。エゴを放棄して分かち合いで兄弟愛に努めようとする、人間の意志と善意次第だからだ。そういう協力精神がない限り、すべての努力は水の泡だ。愛に基づく社会変革を実現したいと大多数の人たちが願い、それが根付くように精力的に協力してくれねばならない。強制によってや、全般的な協調がないならば、何も成し得ないからだ。
  指導者には、霊的に高度の許容力を持つ人たちを選ぶ必要がある。愛に満ち、謙虚で、寛大で、貪欲・強欲・野心を一切持たず、状況を把握していて、公共の益・社会の正義・富の公平分配を促進する方策を採る用意がある人たちだ。そういう人たちならば、その場その場で、するべきことがわかるであろう。
  大至急すべきことの一つに、高利貸しと投機で成り立つこの経済システムを解体し、利己的な手口が世界に再臨しないように見張って防いでくれる、正義感のある公平な法を制定することがある。したがって、「エゴに突き動かされて、他者に損害を与えてはならない」という戒律は、「公共の益・社会の正義・富の公平分配を促進せよ」補完されることになる。

2015年2月16日月曜日

26 愛の法則から見た十戒 8

*第六番目の戒律は、「不純な行為をしてはならない」です。

 これも、時代と共に変化してきた戒律だ。カトリックやキリスト教の申命記の訳では、「姦淫してはならない」とある。

*どちらが正しいものなのですか?
 どちらも正しくはない。申命記に記載されているヘブライ語の十戒を見てみれば、この戒の最初の訳は「姦淫してはならない」ではなく、「売春してはならない」であると気づくだろうが、それは「望まない性行為を誰にも強いてはならない」というに等しい。
 取り決めによる結婚も、この戒律の及ぶ範囲だ。伴侶の一方に―通常は女性になるが―望まない性関係を持つことを義務付けるからだ。つまりこの戒は、婚姻関係があろうがなかろうが人に望まない性行為を強いてはならない、という意味である。
 この時代の女性や子どもの権利(特に子どもの)は無に等しく、彼らは、家畜に毛が生えたも同然の扱いを受けていた。
 女性は、特に最下層に属していれば、いたいけな幼少期から商品とされ、奴隷や娼婦として売買されて、お金を払うことができた者たちの低俗な本能をみたす道具とされた。女性が誘拐されたり強姦されることなど、日常茶飯事だった。戦時には、たびたび戦利品とされて、兵士に強姦されたあげく、娼婦や奴隷にさせられた。
 取り決め婚も日常的で、家族でさえも自分たちの娘をお金や権力がある人と結婚させることができると、いい取引をしたと思っていた。親の利益のために、少女が大人や老人と結婚させられたり、男児と女児同士の結婚も頻繁であった。子どもたちがまだ小さい頃や生まれる以前に、親同士の決断で婚姻が取り決められていたので、結婚の90%以上には、弱い方の伴侶の意志が反映されていなかったと言える。
 権力者や野心家は、より一層の富や権力を貯えるためや領地拡大の手段として、あるいは単なる気紛れから好き勝手な人を性的に所有できるように、婚姻を利用した。一夫多妻は普通のことで、富と権力の象徴であり、良いことと思われていた。
 これほどまでの搾取と屈辱を忍従させられていた、女性や少女たちの苦しみを想像してみてほしい。この戒律は、そのような搾取のすべてに歯止めをかけようとしたものだ。それなのに、ここでもまた人間のエゴが、犠牲者を刑吏に、刑吏を犠牲者にすり変えてしまった。なぜなら、すぐに罰せられるのは売春を強いられた女性たちとなり、売春を担ってこの掟に背いた、娼婦斡旋者、レイプ犯、強引に夫となった者、あるいは娘を売って商売した親などは、お咎めなしとなったのだ。

*この戒律を変えようとした動機は何でしょう? つまり、いつ、どうして、「売春してはならない」が「姦淫してはならない」になったのでしょうか。

 権力者が堂々とレイプや売春をしていれば、「売春してはならない」という戒律に違反していることが明白になる。政略結婚も一夫多妻制度も、代わりに妻や妾たちを扶養しなければならなかったものの、権力者にだけ許される人目を欺く売春や強姦の一種であった。実際のところ、この慣習はモーゼが生まれるずっと以前から、広く行き渡っていたのである。
 モーゼはそのような搾取の実態を知り、大変な憤りを覚えたので、聖なる助言を拠り所にして、その廃止を法令化しようとした。彼の生存中は、最も目にあまる乱用行為を止めることができたが、彼の死後は、支配者たちが彼らの都合のいいように、この戒律を解釈し始めたのだ。だが、戒律自体を変えてしまう度胸はなかったので、元の意味が曖昧になる新たな法律を発案して、それを付け足した。
 始めに、政略結婚や一夫多妻制や妾を囲うことが神の意に叶うことだというイメージ作りをし、結婚はそれ自体が聖なる制度であるとした。次に、不用となった妻たちの扶養義務から逃れるために離縁制度を考案し、この戒律自体の解釈を変え、売春していたのだと告発して、離婚を女性のせいにした。
 中には本当に、恋愛感情を抱く別の男性と性関係のある女性もいたが、それは、無理やり権力者の妻にされていたために、公にその人とつき合うことがならず、人目を忍ぶ恋をしていたからである。
 また他の女性たちは、離縁によって社会から完全に閉め出されてしまい、身売りをして生き延びるしか術がなく、虚偽の罪状を現実のものとして認める羽目になってしまったのだった。

 カトリック教会はさらに大胆で、最終的にこの戒律を改ざんしてしまい、配偶者を選ぶ自由は無視して、婚姻制度を最も重要なものとした。のちの時代の権力者たちも、エゴを満たす武器として政略結婚を利用し続けており、それを放棄する気がなかったからである。
 そのために不義密通という概念を導入し、掟の再定義に利用したので、この戒律は「姦淫してはならない」に変わり、婚外交渉を持つ配偶者を罰することが可能になった。だが、カトリック教の社会もユダヤ教のように男尊女卑が根強いので、実際に姦淫罪で有罪とされたのは女性だけで、男性は咎められることなく依然として二重生活を送っていた。


*お話にもかかわらず、最も信仰心の篤いとされる社会では、今でも取り決め婚は正常で神が喜ぶと見なされている、一般的な習慣です。これについて話されたいことはありますか?

 取り決め婚は、外見上「潔白」に見せかけているが、実は制度化された蹂躙形態である。この点に関して疑義が生じないように補足をすると、取り決め婚は、自分が選んでもいない相手と暮らして性関係を持つことを強要されるので、霊的な観点からは、自由意志の甚だしい侵害であり、人の感情を極度に屈折させるものである。
 しかも、言うことを聞かなければ神の計画に背く不純で汚い人だと思い込まされるなど、脅迫や恐喝の限りを尽くして隷従から逃れられないようにされるので、「神の名を、利己的な目的に使ってはならない」という掟にも違反することになる。

*それでは、不義密通は霊的に見て悪いことなのですか、どうなのですか?

 この件については、パートナーとの関係について話した時に幅広く扱ったが、霊的な次元では、自分の感情に誠実であるか否かが唯一の問題だと言った筈だ。それが、幸せへの鍵であるからだ。
 夫婦にお互いに男女の愛情があれば、自然に忠誠心が湧いてくるものであり、その無理強いはできない。
 世間のしきたりは、ここでは問題でないのだ。無理やり夫婦にされれば、強要された伴侶とセックスすることを嫌悪して、間違いなく大反発するだろうし、自分で選んだ人と交際して性関係を持ちたいと願うに決まっている。また、自分で決めた関係であっても、愛情がなければ不満を覚え、性欲が減退しセックスを拒否するかもしれず、別の関係で満たされない思いを埋めようとするだろう。
 このようなケースでは、不義または密通と呼ばれるものは、夫婦間に男女の愛がないことを反映している。そのような夫婦は、我慢しているか、愛のない関係を強いられているかで、家庭の中に見出せない愛を外に求めているのだ。
 ラテン語源学上では、「不義密通」という言葉[adulterio]は、物の品質や純正さを異物を混ぜて変化させてしまうことや、真実を偽ったり改ざんすることを指す「偽造する」という語[adulterar]から派生している。
 これらの意味を知ることで、不義密通という言葉の霊的な定義がわかりやすくなる。不純な関係とは、二人が外見的には愛情があるふりをして一緒になっておきながら、本当はそうでない場合である。つまり、愛のないカップルの結びつきは、演出された偽りのものであり純粋ではない、ということだ。
 パートナーとの関係が相互の愛の感情と類似性に基づいていれば、霊的な定義においても現世的な意味においても、不義密通は存在しなくなる。愛する者と一緒にいれば、性関係も真に満たされたものとなるので、性欲を満たすために別の関係を求めようとしなくなるからだ。
 だが、これが実現するためには、感情においての自由がなければならない。よって、人間がこのことを理解できるまでに進歩した今日においては、この「売春してはならない」という戒律は、「感情の自由を尊重せよ」に置き換えられると言っておきたい。別の言い方をすると、すべての人は、誰とカップルになりたいか、またはなりたくないかを、性的な関係を持つことも含めて、自由に選ぶ権利があり、何者もこの権利を侵してはならないということだ。それゆえ、誰も、望まない相手と一緒になることを強要されはしないし、嫌な関係をずっと続けるように強いられることもない。

*教会で褒め称えられている婚姻非解消主義はどういう位置づけとなりますか?

 前にも言っただろうに。署名入りの結婚契約書の有無にかかわらず、確固とした愛情がある場合には、夫婦の関係は自然に続いていくのだ。継続を強制することは、自由意志の侵害になってしまうので、してはならない。
 婚姻の不解消は神聖な法律ではなく、人間が考案したもので、モーゼもイエスも関係ない。事実、これは、イエスが地上にやって来てから千年以上も経って、導入された規則である。歴史を復習してみるがいい。キリスト教徒のローマ皇帝が支配していた間はずっと、離婚は合法であった。キリスト教徒の皇帝の時代の民法では、離婚後に再婚することを認めていたのだ。ローマ帝国が解体して誕生した国家も全部が、離婚を有効としていた。
 キリスト教国家で婚姻非解消主義を推進したのは、法王グレゴリオ9世(在位: 12271241)である。彼は、当時の皇帝や王族と敵対していたために、彼らが頻繁に妻を取り替えているのを見て、法令を出したのだ。

*それでは、離婚しても天の法則に違反することにならないのですか?
 
 もちろんだ。その反対に、自由意志の行使と感情における自由を選択できるので、良いことだ。先にも言ったが、望まない関係を続けるように強要される者は一人もいない。それに霊界は、人間の自由意志や感情の自由の妨害などしやしない。

*離婚が増えているのは、夫婦間の愛情が減ってきているからだと解釈する人がいますが、そうなのでしょうか?

 いや、そうではなく、もっと自由に関係を切れるようになったということで、満たされない関係を終わらせることに、心の咎めを感じなくなったことの反映である。
 以前の方が離婚が少なかったとしても、関係が良好であったからでも、もっと愛があったからでもない。そうではなく、法律で離婚が認められていなかったためか、合法であっても抑圧的な教育を受けたせいで、多くの人たちが、愛がなくてもその関係を継続させねばならないと感じていたからである。

*「売春してはいけない」という戒律の話のついでに、霊的な視点からは売春をどう見ているのか、ご意見いただけますか?

 売春は、感情の発達の成長が乏しいことを反映している。進化した魂ならば、愛のない性関係など理解できない。また、二人の合意がない場合は、なおのこと受け容れがたい。
 売春で性欲を満たそうとする者は、感情が貧しく、愛の感情や感受性よりも本能に支配されている。

*でも売春はどのように法令化すればいいのでしょうか? 合法化すべきでしょうか、禁止するべきでしょうか?
 
 未成年が関係するものは、全部禁止すべきである。斡旋業者も客も―このケースでは小児性愛者になるが―追及されるべきで、未成年者は二度とそのような搾取をされないように保護されなければならない。
 成人の売春に関しては、強制されたものを禁ずるべきである。つまり、売春をする者が、そうするように何らかの方法で、強要されたり圧力をかけられる場合である。これは自由意志の侵害となるので、司法は売春を強いた者を追及すべきであるが、強制的に身売りさせられていることを客が知っていた場合は、客も同様に処罰されるべきである。そして、それ以上の痛手を受けないように、身売りさせられていた者を保護しなくてはならない。
 誰も経済的な理由から売春をせずに済むように、政府も、経済的な糧のない人たちを支えようとすべきである。他の選択肢がなくどうしようもないので、自分や家族の食い扶持を稼ぐための最終手段として売春に訴える者がいるが、そういう売春では、社会そのものが共犯者なのだ。
 しかし、家族を扶養する必要もなく、充分な自己決定能力がある人が、自発的に身体を売ることを自分自身で決意した場合には、それを禁ずることはできない。このような決断自体が、当人の内面の乏しさを映し出しているとはいえ、その人は自分の意志でそうするのであり、客がそれを強要して犯罪に加担したわけでもないので、この場合は自由意志の侵害の対象とはならない。
 また、売春を完全に禁止しても、かなり原始的な性本能を満たす需要が多く、自由意志を尊重できない君たちの世界の現状では、それを根絶することはできないとつけ加えておこう。むしろ、その結果、強姦や性的虐待のケースが増えて、売春も秘密裡に行われることだろう。よく考えてみれば、君たちの社会で自ら売春に従事する人たちは、多くの強姦や性的虐待を防いでくれている。それがなければ力づくで性欲を満たそうとする、進化の遅れた大勢の魂の低級な本能を、自分から進んで満たしてくれているからだ。
 それゆえ、君たちの世界では、強制的には売春を排除できないだろう。そうすることによってではなく、人類が感性を充分に発達させて、性欲が生物的な本能を満たすものから、男女の愛の想いを表現するものに変わった時に、売春は自然となくなるだろう。そして、これを達成するためには、人間が感情と性的な面で、自由を獲得していることが外せない。そうなれば、性的な関係も自然なものになり、それが商売や搾取の目的に使われることもなくなるのだ。