イエスの使命

         「イエスの地上での使命」の抜粋
イエスについて

イエスの死後、彼の教えに無数の付け加えがなされたために、本来の概念が歪められてしまった。

したがい「麦粒」と「麦殻」とを選り分け、真実と偽りとを区別する必要がある。「魂の法則」に反する信念はどれもイエスの教えではない。

イエスは他の人間と全く同じく神の子だったが、彼はそれを自覚できていた高度に進化した魂で、多くの転生経験と自己努力によって、任務で求められた進化のレベルに至った。地上へは「魂の法則」を教えにやって来たのだが、中でも「愛の法則」の伝道に力を注ぎ、無条件の愛を伝えた。

救済における儀式の有効性

霊道に近道などなく、進化(救済)の唯一の方法は自己改善で、愛の能力を成長させること。

儀式が天国での特権的地位に役立つという信心は、「我々の言うことを聞けば、天国で優遇してやる」と言うに等しく、教会の指導者たちが人びとの霊性を監督して利用するため。人の霊性進化を操るために儀式を利用するのは良くない。

儀式や象徴がメッセージ自体に置き換わってしまい、信仰に反してしまうことが多い。十字軍と宗教裁判は、胸に大きな十字の印を付け手には聖書を握ったまま、死の宣告を行った。

聖餐式について

イエスは別れの晩餐に弟子たちを集めたが、聖餐の儀式を確立する意図はなかった。聖餐式は以前からの宗教儀式が、キリスト教に組み込まれたもの。たとえ象徴的であろうと、キリストの肉体や血を口にするのはカニバリズムを連想させ、イエスとは無関係。

十字の印ついて

十字架は当時は人を処刑するために用いられていたので、現在、電気椅子をペンダントとしてぶら下げようとする者がいないのと同じように、それを信仰のシンボルにしたがった者などおらず、後世に導入されたもの。

当時の宗教組織

当時の宗教組織は、多くの迷信と偽りで人びとを怖れさせ、自らの富と権力への願望を満たすために神の名を利用して、長きにわたって人びとの霊的な成長を阻止してきた。複雑な儀式で気を逸らしたりお金を巻き上げたりして人びとを犠牲にして、派手な暮らしをしていた。そして、その事実を明白にしたイエスを殺した。

聖書や聖典が神の御言葉とされていることについて

全ての宗教には、神の使者による聖典があるが、それは自分たちの神聖を正当化するため。高次の霊に感化されたものがあるのは確かだが、利益に左右された者たちが付け加えた多くの虚偽もあるので、内容を吟味することが大切。メッセージの質を見れば、作者のレベルが分かる。

たとえば旧約聖書の中の神がイスラエルの民を攻撃に派遣するくだりは、神が「殺せ」と命じたことになってしまうが、この部分は侵略に興味があった者たちによる。

原本は千年以上にわたって偽造・改変されてきた。同じ書物が何人もの手によることもあるので、真実のすぐ脇に大嘘が書かれている可能性もある。真実は、徹底的に中味を分析してのみ、知ることができる。

教会や聖職者が、地上における神の仲介者だとされることついて
「自由意志の法則」を尊重せず、教義を押しつける宗教は本物とは言えないので、これらの宗教の権威者たちは、真の霊道の導き手ではない。
イエスには、司祭という身分を創る意図も、階層制度を設ける意志もなかった。カトリックのヒエラルキーは、その時代のユダヤ教会を模倣したものだ。イエスは、一人ひとりが神と繋がっていると教え、司祭を介してのみ神と交信できるという誤った考えを覆しに来たのだが、人びとが覚醒を阻もうとする当時の聖職者階層によって殺されてしまった。
選民思想について
神に優先される民族や人間など存在しない。神や高次の霊性は、特定の民族や人種と特別に結びつくことなどはせず、全ての人に進化の計画を呼びかけるのであり、それに協力したいかどうかを決めるのは、各魂である。
ゆえに「選ばれし者」とは、自分の内面を高次の霊性に開き、「愛の法則」に従った人生を送る約束をした者に過ぎない。
十字架上の死について
イエスが偉大なのは、カトリック教会が強調してきたように、十字架にかかって死んだことではない。もしもそれが功績なのだとしたら、その時代にはそれが罪人の処刑法だったので、同じ形で死んだ何十万人の人びとにも、功績を認めなければならない。
イエスの最大の功績は、携えてきた愛のメッセージを布教した果敢さと勇気にある。無条件の愛を知った魂は、償いの必要性のためではなく、遂行せねばならぬ任務のために行動するのだ。
預言者や霊的指導者について
預言者とは、霊界の真実を教えるために送られて来る平均よりも進歩した魂だが、特別で神聖な特権を持つ存在などではない。人びとに与える効果に目が眩んでしまうと、霊的知識の光を届けているだけの筈なのに自分が優れていると思い込み、神のごとく扱われることを要求するようになることもある。そうなると、インスピレーションがなくなる。
霊的なガイドは、何の分け隔てもせずに、全ての魂を支援する。真の霊性には、国境も経済格差も、人種や宗教やいかなる違いも存在しない。
よって霊的な真実を公開することで代償を貰おうとする者たちは、全て、真の霊的な指導者だとは見なせない。「会員だけ」の真実というものは存在しないからだ。また、真のマスターは自由意志を尊重し、提供するものを受け取るか取らないかは他者に任せる。
どんなに高次に思える思想であろうと、信仰のために意志の放棄が求められるのなら、そうするに値しない。メッセージを分析し、納得できなければ拒むこと。強要されるドグマは、受け容れるべきではない。
妄信的な信仰も、霊性を管理する社会層も必要ない。答えは自分の内に探しなさい。私たちの内面は、霊的ガイドや高次の霊性と直接繋がっているので、思っているよりもずっと賢いのだ。
多くの宗教で個人的な霊との交信が邪悪だとして認められないわけ
霊界との交信は一部の人たちだけの特権ではなく、全員が高次の霊性との直接的な繋がりを持っている。
自分たちの聖典を預言者が神と交信して得た御言葉だとする宗教権威者たちが、一般人に交信を禁止するのは、各人が独自の繋がりを持ってしまえば、彼らが主役の地位と権力を失い、信者を操ることができなくなってしまうから。宗教の多くが、個人が神や守護霊と交信すること阻んで、支配力を維持してきた。
愛をもって祈れば高次の聖霊から応援されることを知っていた初期のキリスト教徒は、人類が霊的な闇から解放されてしまうことを怖れた宗教組織によって弾圧され、以後も多くの者が、宗教裁判で火刑となった。
現在でも霊界との接触を怖れさせる目的で作成された映画は無数にある。
カトリック教会がユダヤ教に似てしまったわけ
初めはイエスの信奉者となるには大変な覚悟が必要だったが、信徒が増え続けるのを見た権力者たちが特権や搾取が終焉を迎えることを恐れ、イエスの人物像と教えを手中にしてキリスト教に鞍替えをし、重要な職に就き始めるようになった。
それ以前の宗教儀式が沢山取り入れられ、隣人愛のメッセージは、それに反する概念で侵されてしまった。神と金とに兼ね仕えることはできないが、カトリック教会は最初からお金を選んだ。
法王が地上における神の代表ということについて
法王も普通の人間と同じで、霊界との繋がりが特別なわけではない。高次の霊性との繋がりは、無条件の愛を努力して強くなるもので、どれほど立派な肩書きがあろうと、それで繋がりが深まるわけではない。
そう教え込んだのは、権力や富への野望を正当化するためで、救済には彼らが不可欠だと信じこませて、安楽に暮らすため。
告解について
罪悪の自覚は霊的な改善の一歩ではあるが、後悔するだけでは不十分。「愛の法則」に反する行為は、犯した罪を自分自身で償うことによってのみ解消でき、誰かに代わってもらうことはできない。
司祭に免罪権を与えているのは、救済されるには教会の代理人が不可欠なので経済的に支えてあげなければならない、と思わせる戦略の一部だ。
十字架上で死ぬことで、イエスが人類の罪をあがなったと信じられていることについて
イエスの隣人愛の手本に従った者が過ちを犯すことがなく進んで行けたのは確かだが、イエスは誰の罪も払拭した訳ではなく、各人にそれぞれの罪をどうやってあがなうかを教えたのだ。霊界に「コネ」は存在しないので、霊的な試験に合格できるように準備をさせた。
「罪は赦された」と言った意味は、過去に「愛の法則」に反する行為をしても永遠に有罪になる訳ではなく、誰でも改悛すれば、いつでも好きな時に新しくやり始めるチャンスがあるということ。
復活について
亡くなった魂は転生によって肉体生に戻るのであり、失われた肉体を蘇らせる、というのは誤り。
イエスが復活したというのは、彼の肉体が再び生を得たことではなく、彼の魂が生き続けたことを意味している。死後、使徒の前に現れた時は、多くの死者が愛する人にお別れをしにくるのと同じく、アストラル体で顕れた。
「最後の時には死者が復活する」と言われていること
魂は転生によって絶えず物質界に戻って来ているので、復活するために「最後の時」と呼ばれるような時代を待ちはしない。ただ現在は人口爆発により、歴史上の他の時代よりも大量の魂が同時に生まれ変わっている。このようにサイクルの終了時に合わせて、多くの魂が進化のために転生する機会を得ていることが、「最後の時には死者が復活する」という解釈に繋がる。
原罪について
人間の正義観から見ても、父親の罪を息子に着せるのが不公平なら、神の裁きが人間以下にはなり得ない。各自が自分の行為に責任を取らねばならず、他者のしたことには問われないので、原罪や先祖から「継承した」罪などの不公平な信念には何の根拠も存在しない。
性が罪深いものだという考えについて
性関係を自制すればより純潔になれるなどと、イエスが公言したことはない。全人類が生涯にわたって性関係を控えたとしたら、この地球から人間の命は絶えてしまう。進歩した魂にとっては、性関係は親密な愛の表現方法だ。
イエスは自由意志が侵害された性関係を告発し、女性が性奴隷と見なされることを止めさせ、女性の権利を守るために闘ったのだが、教会がそれらを性を卑しむ抗弁にすり変えてしまったのだ。
聖母マリアをの処女懐胎について
マリアは伴侶のヨセフとはイエスの兄弟に当たる複数の息子と娘を得て、彼らの名前が福音書に記載されているにも関わらず、教会はそれを隠そうとしてきた。当時の著者が、イエスに兄弟がいたことを恥じていないのに、なぜそれが問題視されるのか。
キリスト教徒のみが救済されるという信仰について
全ての魂は不死であり、魂の目標は、霊性進化のより高次の段階に達すること。したがって、どんな人間でも、進化の計画から締め出される者は一人もいない。すなわち、神やイエスや教会などを信じようが信じまいが、または人間的には大失敗であろうと、不死だという性質や、霊的に改善できる可能性を失うことなど絶対にない。
もし改悛の機会がなくただ一度の人生で、将来が未来永劫にわたって決められるのなら、「地獄」は満杯で入れる者などいないだろうし、「天国」はサハラ砂漠よりも閑散としていることだろう。
イエスが「わたしを信じる者には永遠の命が与えられる」と言ったのは、各人が自らの運命の担い手であることを自覚させるためで、「教えを信じる者は、命が永遠で『救済』(進化)が本人次第であることが理解できる」という意味だった。
それがキリストの信徒だけが永遠の命を手にすると誤って解釈されてしまったのは、「教会の外に救いはない」という教義によるが、これは信徒の忠誠を確保するためのもの。
救済されるには教会に従わなくてはならない、と信者が信じているのは、教会が善人とは従順であることだと信じ込ませ、意のままに扱おうとしたからだ。
イエスはユダヤ教会の権威者に従順ではなかったが、勇敢で自己の信念に首尾一貫していた。支配者に「従順」でなかったために死に至った人の事例は山ほどあるが、自由で愛すことができた者は幸せである。
最期の告解について
改善するチャンスはいつでもあるが、反省し自覚して、否定的な態度を修正する強い意志と時間とが必要とされるので、司祭によって最期の瞬間に免罪されても、肉体の死後の魂の行方を変えることにはならないだろう。
宗教の問題点
宗教の問題は、全てを高次の「神の御言葉」だと、一連の信念や規則をパッケージのように、論拠のないまま教義として受容することを信者に要請することだ。そこには思考の自由も、何を信じ何を信じないかを選択する自由もない。
「神の御言葉」だとされるものを問いただす勇気のないまま導かれてゆくと、少しずつ自分の意志を放棄するようになり、いつしか古書の規則に従って生きるようになる。
現存するほとんど全ての宗教・哲学・イデオロギーには、嘘に混じって真実がある。自分の心が真実だと見なし進化に役立ちそうなものを、こっちから少し、あっちからも少し、と選び取って、自分自身の真実を見つけていくことは、各人の仕事なのだ。