2015年1月30日金曜日

16 愛の法則から見た隣人愛

愛の法則から見た隣人愛

 
*これまで、パートナーとの関係や子どもたちとの関係など、個人的な関係を集中的に見てきましたが、無条件の愛というのは、そういう個人的な関係よりも、もっと奥が深いものだと思うのです。

 もちろんだ。愛に限度はない。もっと沢山の人を愛することのできる魂の能力が増すにつれ、血の繫がりがあるかどうかにこだわらずに愛せるようになる。最終目標は、分け隔てせずに、創造の全存在を包括する無条件の愛に行き着くことだ。
 イエスが「汝の隣人を自分のごとく愛しなさい」、「汝の敵を愛せよ」と君たちに伝えた時には、このことに言及していたのだ。

*進化するのは、どうしてこんなに骨が折れることなのでしょう? イエスが言ったような、無条件に愛せるようになる進化レベルに、もっと早く辿り着く方法はないのですか?
 
 これは、これまで我々が話してきたことの中核である。
 イエスのレベルまで進化するためには、エゴを排除して愛の感情を発展させることに大変な力を注がねばならないのだが、それは、たやすいことではないのだ。一度きりの人生での仕事ではない。何千もの転生、何十万年もの歳月がかかる。しかも、すべての魂がこの目的のために生まれ変わってきているにもかかわらず、一度肉体を持つや、何のために生まれてきたのかを思い出せないでいる。
 大多数の人びとは、肉体生があるところまでしか意識を向けておらず、物的な福の神が笑っている限りは、物欲を満たすことに人生を費やしている。そして、実存に関する内省はどれも無意味なたわ言であり、時間の無駄だと考える。彼らは、気ままな生活をやめたくないので、何の変化も起こしたくないのだ。
 物質主義的な科学教育の下で知性を発達させて、自身の心の危惧を回避しようとする人たちは、存在に関わるあらゆる疑問を嘲り、無益だと見なしている。

 また、霊性と宗教とを混同している人もいる。特定の儀式を模倣しさえすれば、「天国」での特権的な地位を獲得できると考えて、宗教というたやすい方の道に引き込まれる。そして、神も喜ぶだろうと自分を偽ることによって、霊的な努力を宗教的な熱狂に置き換えてしまうのだ。

 実存に関する疑問を、心の中ではっきり自覚できる人たちも、確かに存在する。目覚めが起こるのは、人生でひどい逆境を体験しながらも、諦めずに説明を見出そうとした結果である場合が多い。人生の意義について、宗教や物質至上主義の科学がもたらす、偏った不完全な説明では納得しなかったのだ。しかし、質問に対して満足のいく答えが得られないので、絶望してしまう。

 無関心、無知、不信感、熱狂や絶望から大多数の人びとが人生の真の意味を見出すことができずにいるというのが、以上の総合的な結論である。したがって、人生を理解しないまま生きており、そこから学べないので、人生において進化することができない。つまり、エゴをそぎ落として愛の感情を育む努力が、ほとんどなされていないということだ。

*僕が理解したところでは、仏教では、人間の諸悪の根源が願望であり、願望をなくすことで心の平安と魂の成長がもたらされると教えているそうですが、これに関してはどうお考えでしょうか?
 
 その願望がどこに由来するものかで、区別する必要がある。利己的な願望と愛の感情に裏付けられる願望とは、異なるものである。
 利己的な願望を排除することとすべての願望を捨て去ることとを混同し、自身の意志を放棄しなければ霊的な進歩は望めないとの結論に達する人もいる。これは大きな勘違いなのだが、他者を意のままに操ろうとする者たちにつけ込まれる要因となる。
 君たちが仏陀と呼ぶ者は、人間の諸悪の根源がエゴであると見抜き、霊的に進歩するにはエゴを根絶すべきであると知っていたので、人が幸せになるために心から排除すべき衝動などの、利己的な願望のことを指していたのである。しかし、いつものことだが、歳月の経過と共に仏陀の言葉と教えも誤って解釈されてしまった。霊的な進化が不充分な者にとっては本物と偽物とを見分けるのが困難なので、スピリチュアルな様相を呈しているだけで、歪曲された教えを正しいものだと思い込んでしまうのだ。

*具体例がありますか?
 
 性に対する姿勢である。多くの宗教で教え込まれているように、性的な願望は、それが願望であるがゆえに、進化したければ排除すべきものだと考えて、どんな状況でも自身の性願望を抑圧せねばと躍起となる人がいるが、これは大きな誤ちである。性的な願望は男女の愛の表れとして目覚め、幸福をもたらしてくれるので、それを拒むのは間違っているのである。
 よく理解している者なら、闘って克服していかなければならないものは、情欲や色欲から生じる性的願望、つまり、利己的な性欲であると気づくであろう。悪癖が顕現した欲望としてではなく、性欲を愛の感情と一致させることに進歩があるのである。したがって、エゴ的な性欲の表れである情欲や色欲を排除することと、性欲すべてを不潔だと見なす純潔主義とが同じであると思ってはならない。
 性欲がパートナーへの愛の反映、愛情の表れであることは、前にも話したろう。純潔主義は神聖なものではなく、偏見と抑圧に満ちている。他人をとやかく言う者ほど、先入観と鬱積したものを隠し持っているのである。

*先ほど、霊性と宗教とを履き違える人がいると言われましたが、霊性と宗教とはどう違いますか? 同じことだと思っている人がいます。

 同じではないよ。霊性は、魂独自の資質と能力で、回を追うごとに強く進化の後押しをしてくれる。進化とは、自由に愛する能力を発達させていくことを意味し、そうすることによって、感情、感性、意識、理解、叡智、幸福の、より高度な段階へと徐々に達していけるのだ。それは、いろいろな理由があるが、自分や自分を取り巻くものの存在意義を知り、自分と他の創造物たちや神との絆を深め、自己を内包する宇宙の仕組みを、それを司る法則も含めて、知るためである。
 宗教とは、人間が創った階層構造を持つ組織で、一連の教義上の信念の周りにしがみついている。これらの信念は、的を得ていようがいまいと議論が認められず、権威者の見解次第である。つまり、その階層構造で一番権威を持つ者に、皆が信じるにふさわしい真の信仰を決める権力があるのだ。

*隣人愛は、大概の一神教の基本を成すものですし、神を信じる人たちも世界には沢山いるのに、どうして、こんなにもエゴだらけで愛のない世の中なのでしょうか?
 
 そのことは前にも話した筈だ。多くの宗教では、愛という言葉は死語に等しく、人を惹き付ける呼び水として使われているだけで、実践して見せることも、手本を示すこともない。しかも、愛は、それより重要視されている他の多くの規則や信仰の陰に、隠されてしまった。だが、これらの規則や信仰は、愛そのものやや「魂の法則」と矛盾するものなのだ。たとえば、議論の余地を与えることなく、一連の教義を信者に押しつける者は、信仰の自由を妨げるので、自由意志の法則に違反する。
 宗教は、人間のエゴと結びついた現象である。少数の者の利己的な便宜によって、人の霊性が操られているからだ。過去の時代においては、支配的な宗教の権威者たちが自らの信条を力づくで課し、それに従わなかった者たちは抹殺された。彼らの権力は非常に強かったので、異議を唱えることは不可能だったし、しかもそれは命懸けであった。現在では勢力が弱まったとはいえ、宗教はまだ多くの国々で、人の自由を弾圧するくびきとなっている。

*人が愛に向かって進化する上で、宗教が障害になると言われるのですか?
 
 愛に向けて進化する上で障害になるのは、人間のエゴであると言いたいのだ。エゴは大変巧妙に人の霊性に忍び込み、それを歪めて操作をし、その霊性とエゴが混ざって出来上がったものから、宗教が生じる。
 多くの宗教の起点が、真の霊的な教えを説いて人びとの心に浸透させることができた、高次の存在たちの活動にあったことは話したろう。だがその教えは時間の経過と共に、目立ちたがりで野心家の未進化の魂たちによって、彼らの権力と富への野望を満たすために、偽造されて歪曲されてしまった。本物の「魂の法則」は、エゴによって突き動かされたそのような者たちの影響を被り、儀式や式典で飾り立てられ見せかけの霊性で覆われた、「エゴの諸法」に置き換えられてしまった。

*本物の「魂の法則」が「エゴの諸法」に置き換えられてしまった例を示してください
 
 そうだね、君たちの世界では、「霊的裁きの法則」を利己的な「漏斗の法則」と入れ替えてしまった。つまり、自分たちには許容間口を広くし、他の者には狭くしているのだ。
 人は、自分が得することは公平だと思い、他者を得させることは不公平だと見なす。同じことでも、それをするのが自分自身なのか、それとも他者なのかによって、違う目で見る。君たち自身の利己的な言動は正当化するくせに、他人であれば、同じことをしていても熱烈な批判をする。そして、影響力の強い者の規則が、他の者たちに強要される羽目になる。
 たとえば通常権力を握っている者たちは、法外な給料、不相応な年金、税金の免除など、他の者たちが持たない特権を享受しているが、その一方で、他の市民にはずっと厳しい規則を守るように強いている。

 
 君たちは「愛の法則」と「富と成功とを充足させる利己的な法則」とを入れ替えてしまったために、個人の興味や物的な願望を満たして、成功や名声、気紛れで便利な快適な生活を手に入れようとすることが良いことだと理解し、そのためには仲間を苦しませようが意に介さない。そして反対に、そのようなものがほんの少しでも奪われてしまうと悪いことだと思うのだが、それは違うのだ。
 きちんと理解してさえすれば、良いことをするというのは「愛の法則」と調和した行動をとるということで、悪いことをするとは「愛の法則」と反する行為、一般的には苦悩や不幸を引き起こすエゴ的な行為、を意味するとわかる。

 
 さらに「自由意志の法則」は、「強者の法則」に置き換えられた。それはつまり、一番強い者が一番弱い者に自分の好き勝手を押しつけている、ということである。
 だから、君たちの世界では、発言者が重視されるのだ。その人がどういう役職、タイトル、身分なのかが見られ、話の真偽は問いただされない。質素な者は本当のことを話しても聞き入れられず、権力者、有名人、成功者、その他人間が発明した地位やタイトルに昇りつめた者は、何を言おうと一目置いてもらえるので、好き勝手が言える。そのような有名人の多くが、一般人を操り狂信的にさせる偽りのメッセージを発信しているのだが、なおかつ、他の人びとよりも優れていると見なされている。
 「強者の法則」が幅を利かせ「自由意志の法則」が軽視されているのは、宗教の権威者に関しても明らかだ。自らを霊的に進化していると見なす者たちが、実は最も不寛容で理解がなく、頑なで、規則や儀式を厳密に守ることだけに熱心だというのは、なんたることか! そして従わない者を強く非難し、他者の行為や行動を安易に告発するのだが、自身の利己的な悪癖を直すことには力を注がない。霊的な美徳とは、他者の考えに対する寛容と理解ではなかったのかね? 彼らのどこにその美徳があるのかね?

*でも僕は少なくとも今日では、大勢の人たちが、そのような利己的な態度や教会の中で霊性が操作されていたことに気づいて、真の霊的な知識を探し求め始めていると思っています。
 
 それは肯定的なことだが、知るだけでは不充分だ。真実を見分け、虚偽と区別することが必要だ。なぜなら、霊的な知識を多少なりとも身につけていたとしても、それらがすべて本物だとは限らないからだ。最も大事なのは、愛の感情とエゴについて自分が学ぶことを実践に移すことだ。そうしなければ進歩もあり得ない。
 私が言っておきたいのは、特定の霊的な知識を得ることと霊的に進歩することとを混同してはならない、ということだ。愛の感情を発達させて前進するのに役立てるべき学習知識が、上品に取り繕って霊性を装ったエゴを野放しにするために使われたら、教会の高位神官が陥ったのと同じ罠に落ちてしまう。

*それは、どういうことですか?
 
 様々な出処の霊的な知識を知りたがり、それらを勉強することに非常に熱心な人たちが沢山いる、ということだ。しかし知り得た知識を、利益をあげるためや名声・ファンの獲得や自己顕示の手段として利用して、他の人たちより優れていると思い込めば、実は、愛の感情を育む代わりに、自己の虚栄心の奔放を許すことになる。だが、自分自身を見失うだけに留まらず、それを真似て後に続く者たち混乱させてカオスをもたらし、他の人びとを霊性の道から逸脱させてしまうことが、もっと罪深いのだ。
 イエスは正にこのことを告発し、当時のユダヤの聖職者たちを「盲人たちの盲目の導き人」と称したのである。それゆえ、他者に布教しようと勇む前に、最初に自分自身をよく見ることが非常に大切となる。なぜなら、初めに自分を見ないせいで自己のエゴに気づかず、エゴを排除しようと努めない者は、奉仕の行為において、他の人びとの手本になる資格がないからだ。

2015年1月28日水曜日

15 愛の法則から見た子どもとの関係


*より効果的でもないのに、紀律正しい教育の方がいい、という親がいるのはなぜでしょうか?

 いいかね、多くの場合、問題は子どもにあるのではなく、親にあるのだよ。というのも、自分の子どもの気持ちもわからなければ、その子の愛情の必要性も理解できない親が沢山いるのだ。要は、感情に関して、全く無知なのだ。扶養し、病気の時に医者に連れて行き、物的な必要を満たし、学歴になる有名校で勉強させることができたら、親としてできることは全部したと思い込んでいる。だが、決定的な何かが欠けている。それは、自分の子の感情面に気を配ってあげる、ということだ。
 自分自身の子どもを煩わしく思い、一緒にいる時間をあまり作らずに、愛情も理解も示してあげない親が大勢いるのは、嘆かわしいことだ。そういう親は、子どもといるのがむしろ鬱陶しく、その子のやること成すことに我慢がならず、気にかけてやろうともしない。しかも、一部の親には、子どもの価値を学校の成績ではかる傾向が頻繁に見受けられる。中には、子どもの成績が悪かったり、病気になった時にしか心配しない親もいる。
 そうすると、あまり愛されていないと感じた子どもたちは、親の注意を引こうとする。成績が下がれば親が関心を持つことを知っていて、勉強をしなくなる手段に訴える子どももいる。それどころか、感情的に大変傷ついて、勉学も含めて、すべてに対して興味を失う子どももいる。
 親は、子どもへの無知と関心のなさから、勉強に怠惰なのが問題なので、もっと強制的に勉強をさせる威圧的な先生のいる、紀律を課す学校に行かせるべきであると思う。しかし、問題となるのは学校ではなく、親たちの関心のなさなのである。

*大人になった時に自力で生活できるように、子どもに勉強してほしいと望むことのどこが悪いのですか?
 
 勉強してほしいと望むのは何も悪くはないが、子どもを愛するかどうかがそれに左右されてはならない。
 頭の良さや成績がいいことだけしか評価されなければ、子どもたちは自尊心の問題を抱える上に、勉強のストレスに押し潰される。あるがまま無条件に子どもたちを愛してあげて、幸せになれるように彼らの気持ちに配慮してあげるべきだ。
 また、大人が子どもの自由や自発性を大いに制限する、無意味な規則に慣れさせようとすると、子どもたちはそのような規則を不当に思い、反抗する。子どもに遊びを禁止したり、ずっとじっとしているように命じるのは、馬鹿げている。そういう見当違いは、理論で納得させられないので、親は強要したり強制したりするのだ。

*でしたら、その子自身や他の人たちに害が及ぶことでも、子どもに好き勝手をさせてあげるのがよいのでしょうか?
 
 全部は駄目だよ。常識を使っておくれ。
 何事にもそれをすべき時期がある。子どもの自由度と責任は、大きくなって能力が高くなるにつれて、増やしていくべきだろう。いろいろな危険に気づいていない幼児には、見張りをつけずに、外で独りで遊ばすわけにはいかない。安全を確認しないで道を横切るなどの、無分別な行動をとってしまうかもしれないからだ。
 その子にとって、そして他の人にとって危険なことを、段階を踏んで教えていかねばならない。他の子どもたちを大切してぶたないこと、侮辱しないこと、そして宿題をするとか遊んだ後におもちゃを片付けるなど、年齢に応じた責任を果たすことを教えないといけない。つまり、子どもの年相応以上でも以下でもないことなのだが、いつもその子の自由と感性を尊重して大事にしてあげて、理解を示し、愛情深く、また忍耐強く接することだ。

*でも、限度はどこにあるのですか? たとえば、子どもが学校に行こうとしなかったり、宿題をしない場合は、強要すべきですか、それとも放任すべきですか?

 常識を使ってほしいものだ。
 力づくで強要してやらせるのではなく、子どもと対話し、学ぶことの大事さを教えて、やる気を起こさせるのだ。宿題を一緒にする時間を作って、楽しくとっつきやすいものにしてあげれば、力で押しつけるよりはずっといい反応を示してくれるだろう。

*どうやって、必要なのに退屈で面倒なことを、子どもに学ばせることができますか?
 
 それを面白いものにして、一緒にしていてあげる。そうすれば、子どもは関心を持ってもらっていると感じるし、自分のしていることを手伝ってもらっていると思うので、続けていく気になる。子どもたちは遊んで楽しむものだが、ゲームを介せば、うんざりさせずに多くの物事を教えることができる。そうなれば、学習が楽しいものとなるので、自分から進んで勉強したいと思うようになる。

*家庭内、家族においては、どのように教育するべきでしょうか?
 
 子どもと一緒にいる時間を作ることだ。一緒に遊び、その子に関すること―問題や心配事など―について会話を持ちなさい。
 質問があれば、いつでも応じられるように心を開いていなさい。子どもたちは世の中を発見している最中なので、学ぶためには、何でも尋ねる必要があるのだ。君たちには明白なことかもしれないが、彼らにとってはそうではないので、馬鹿にされたと思えば萎縮してしまう。子どもに対しては、とてもとても辛抱強くあることだ。
 また可能な限り、遊ばせてあげなさい。子どもにとって遊びは命であり、遊ばせてあげなければ大きな弊害を被る。彼らへの君たちの愛情を目に見える形で―言葉によってや、キスしたり撫でたり抱きしめてあげて―示してあげなさい。子ども自身の人格が自由に形成されるように見守り、自分たちがそうであってほしいと望む資質を押しつけてはならない。丸ごとあるがままに愛してあげて、子どもが少しずつエゴを削り取って、制約のない感受性と情緒を育んでいけるように助けてあげるのだ。それから、子どもたちとは何の関係もない、大人である君たち自身の問題や心配事で、彼らの生活に波風を立ててはならない。

*ですが、子どもに対してあまりにも寛大だと、その子が要求の強い我がままになって、我を通そうとして、癇癪やヒステリーを起こすこともありますよね。そういう場合は、どうしたらいいですか?
 
 確かに親の中には、怠慢であったり気が弱いため、あるいは子どもの文句を聞きたくないために、危険なことまでを許してしまい、どんな気紛れでも満たしてしまう者がいる。すると、その子は要求が強い我がままになって、小賢しく親の意志を曲げようとする。
 そういう時には、子どもの脅しに負けない、毅然とした態度が必要であるが、暴力的または攻撃的に応じてはならない。子どもが横暴に振舞う時ほど、その言い分を聞いてはならない。そういう態度をとると無視されて、要求したものが手に入らないとわかれば、じきに諦めるだろう。対話をして内省させ、自身のエゴ的な言動に気づけるように、子どもを助けてあげなさい。

*将来親となる人たちへのアドバイスがありますか?

 こどもが愛してもらえること、生活のあらゆる面、特に感情面を気にかけてもらえることを確信して生まれてこれるように、愛をもって子どもを設けなさい。この世に生まれる子どもたちが愛と共に受胎するなら、世界の苦悩は著しく減少することだろう。

*過去の時代と比較すれば、現在は事情が良くなっていると思いますよ。僕が言いたいのは、今の親たちの方が子どもの必要性を認識しているということですが、間違っていますか?

 ある程度進歩したのは確かだ。過去の時代では、大半の子どもたちが、両親に知識と配慮がなかったために、この世にやってきていた。つまり、両親が切に望まないまま、生まれてきていた。今日のような性教育も手段もなく、男女は避妊の手立てがないまま性関係を持ったので、偶発的に生まれてしまっていたのだ。生物的に可能な限りの数の子どもを産んだので、多くの場合、子どもたちの生まれ出る環境も物的に貧しかった。
 子どもに対するほとんどの親の心配は、死なないでほしいということだけで、感情面への配慮は無きに等しかった。生まれ出るには最適な環境とは言えなかったが、魂にとっては、物質界に転生することで学んで進化することが欠かせないので、どんな機会であろうと、提供されたものはすべて利用したのだった。親や子となったそれらの魂の感性は、今ほど発達していなかったので、子どもたちが情緒的・感情的に構ってもらえなかったとしても、感受性が鈍かったために、その苦しみも緩和されていた。
 今日では、特に西洋の多くの国々において、状況が変化している。親の意志がないまま、偶発的にこの世に誕生する子どもの割合は減少した。大半の子が、両親の子どもを持ちたいという意欲と意識によって、妊娠する。より経済的に恵まれている西側諸国では、兄弟の数も少ないので、子どもの生存と物的な心配りは親から保証されている。飢えも渇きも寒さも、また栄養失調や不衛生から生じる病気も体験せずに済むだろう。
だが、まだ重要なことが欠けている。それは愛のために、愛情をもって子どもを宿すということなのだ。まだ多くの子どもたちが、愛とは異なる動機によって、設けられている。

*親が子どもを持とうとする時の、愛とは異なる動機とはどういうものですか?
 
 家系を存続させなければという一種の義務感や、老後に子どもに面倒を見てもらえるという便宜上の理由から、子どもを作る場合が多い。
 ある程度の年齢がいってもまだ子どもが欲しくない夫婦の場合は、それによって人生を変える必要が生じるために、そうする気になれないからだ。だが、生物的な妊娠能力は年齢と共に低下していくので、「時期を逸してしまう」前に、世間と同じように、やはり子を作ることになる。
 また、二人の関係が壊れる怖れがある場合に、伴侶を捉まえて夫婦関係の継続を強要するためや、上手くいかない関係を救おうとする必死の試みとして、子どもを設ける場合もある。

*愛がないまま受胎した子どもは、どういう結果になりますか?
 
 愛がなく生まれ出る子の多くが、虐待、無理解、無配慮、冷淡という形での両親の愛の欠如に苦しむ。現在誕生している子どもたちは、無数の転生経験から得た学びの成果として、過去の時代よりも進化した繊細な魂なので、非常に傷つきやすい。そのため、感情面への無配慮や精神的な不快感に対する彼らの苦悩の度合いは、過去よりも大きいのだ。
 親がいくら、問題はいつも悪い態度をとる子ども側にあるのだと信じ込もうとしても、西洋の子どもたちの大半の苦しみの原因は、両親から愛されていないということだ。愛がないがゆえの苦悩のせいで、感情的なトラウマや肉体的な病気を引き起こしてしまう子も中には沢山いるが、大半の親がそれに気づかない。だから親は、子どもが感情的に良好な状態でいるかどうかをもっと認識して、敏感にならねばならない。そうすれば、今、子どもたちを打ちのめしている、苦しみの多くが回避されよう。

2015年1月27日火曜日

14 愛の法則から見た子どもとの関係

愛の法則から見た子どもとの関係

 
*人類が霊的にもっと速く進歩できるように、社会レベルで適用できる方策がありますか?

 ああ、子どもたちを愛し、肉体的にも精神的にも傷つけないように気をつけることだ。絶対に彼らに、屈辱的な思いをさせてはならない。霊的な観点からは、幼児への虐待は、最も重い犯罪の一つであると忠告しておこう。
 子どもたちが自由でいられるようにしてあげなさい。思い思いの気持ちを表現でき、好きに遊べて、遊びながら学べるように。
 愛されて育てられる世代の子どもたちがいれば、君たちの世界は急速に変化するだろう。愛には世の中を変える力があるのだ。君たちには世界を変えられなくても、愛を知ることができた次の世代が変えてくれるだろう。

*どうやって子どもと接すればよいのかがわかる、助言がありますか?

 君たちは、子どもであったことがないのかい? 彼らの身になって考えてごらん。君たちが子どもだった頃の、良いこと、悪いことを思い出してみるのだ。人からされて嫌だったことを思い出したら、それを繰り返さないようにして、良かったことは手本とすればよい。
 私は、肉体的な危害だけではなく、精神的な嫌がらせも問題としている。認める人はほとんどいないが、君たちの世界には、自分自身の子もさることながら、子どもたちを精神的にいじめる人たちが沢山いるのだ。
 彼らは、自分自身の問題にどっぷりと浸かったまま、子どもたちを傷つけていることに気づく感受性のかけらも持ち合わせていない。子どもは所詮子どもであり、大人と同じようには物事が理解できないためにもっと鈍感であると考えて、何の配慮もせずに接して、自分たちのフラストレーションをぶつけている。
 しかしながら、それは全く違うのだ。子どもたちは、大人よりも肉体的・感情的に敏感で傷つきやすいので、できる限り丁寧に、愛情深く扱ってあげることに重点を置くべきである。子どもたちをそのまま丸ごと受け容れ、愛してあげなさい。
 条件付きで、子どもを愛してはならない。自分の子どもを愛さずに、自慢するためだけに利用する人がいる。その子が他の子と比べて何らかの能力に秀でていると、頭がいいと鼻を高くするが、能力がなければ過小評価をする。すると、子どもの自尊心に甚大な影響を及ぼしてしまう。自分の子どもを本当に愛する者は、顔が可愛かろうとなかろうと、頭が良かろうが悪かろうが、積極的であろうがなかろうが、その子をあるがままに愛するものである。

 *子どもを教育するには体罰が必要だ、という意見の人もいます。これについてはどうでしょう?
 
 それなら、その人たちは、仕事の出来がまずかったと上司に見なされれば、時々たたかれても構わないのだろうね。

*本当は、そうされて面白いとは思わないでしょうね。職場における暴力ということで、上司を訴えるのが普通だと思います。
 
 面白くないのは、たたかれるのが好きな人などいないからだ。大人をたたくことが犯罪行為となり許し難いのであれば、ずっと力が弱く身を守ることができない子どもをたたくことが、どうして許容されるのだろうか? 
 自分自身に望まないことは、他者にしてはならない。子どもという、もっとか弱く無防備の者が相手であれば、なおさらである。
 親の中には、子どもが他の子をぶった時に、今駄目だと禁じたばかりのことと同じことで罰する―つまり、子どもをぶつのだ―者がいるが、それを目にするのは悲しいものだ。禁止されたことと同じことをする大人を見る子どもは、一体何を学ぶのだろうか? 一番強ければ、暴力で自分の規則を押しつけても構わない、ということに他ならないだろう。
 絶対に子どもをぶってはならない。その子のためだとか、教育のためだとか、紀律を教えるためという言い訳を利用してたたくことは、なお、良くないことだ。
 体罰を用いる者は、教育を施しているのではない。自分に教える能力がなく、子どもを扱う、こつや忍耐、優しさ、繊細さに欠くことを示しているだけである。性暴力や虐待に対して闘うのならば、幼児虐待に対しては、それ以上の力が注がれるべきだ。

 *それにしても、今日では幼児虐待は多くの国で法的に罰せる犯罪とされているので、虐待の証拠を示すことができれば、それをした人を処罰できる筈です。
 
 そう、特に西洋ではね。そして、これは大きな進歩だ。
 問題は、多くの場合、子どもが虐待を受けたという証拠を示すのが難しい点だ。虐待の証拠がそれほど明確でないことがあるからだ。
 大人が虐待を受けるケースなら、自分自身で身を守ることもできるし、実際に暴力を受けたら、告発することもできよう。だが、子どもは守ってくれる大人を必要とするし、しかも家庭環境で虐待が起こる場合には、保護してくれる筈の人たちが加害者なのだから、一体誰に守ってもらえるだろうか? 
 加えて、君たちの社会は依然として、軽い体罰に非常に寛容だ。自分たちがされたら嫌なのだろうが、多くの人たちが、たたいたり、ぶったり、お尻をはたいたりすることは、許容範囲内だとしている。子どもにすることを自分がされたらどう感じるだろうかと、一人ひとりがよく考えてみることだ。そうすれば、子どもたちに対してもっと心配りができるようになるだろう。

*体罰を用いないのが理想的なので、それを制限するのは賛成だけど、とても反抗的な子どもがいて説明しても駄目な場合は、「強硬手段」を採る必要、つまりもっと断固とした方法で対処しなければならないよ、と言う人たちもいます。これに関してどうですか?
 
 子どもの教育を言う通りにさせることだと考え、言葉や肉体的な暴力で怯えさせて、怖れによって意に従わせようとする者は、自身が無能で霊的に未熟なことを表している。愛、感受性、理解力があれば、常に別のやり方を見出すものだ。だが、それがなければ、どんな口実でも、自分の悪癖を引き出すのに好都合だとされる。

*でも、幼児を虐待する大人の多くが、彼ら自身も子どもの時に虐待を受けていたというではないですか。きっと、手本とすべきものがなかったのでしょう。
 
 そういうケースでは、虐待された時に感じたことと、粗雑で屈辱的な扱いをされて受けた胸の痛みを思い出し、自分自身が嫌だったことを自分の子や他の子どもに繰り返さないように努めることだ。
 幼少期に、多かれ少なかれ、肉体的もしくは精神的ないじめに遭ったことのある人は沢山いるが、それは君たちの世界のあらゆる分野で、エゴがまだ幅を利かせているからだ。実体験から学ぶことができ、苦悩の経験を覚えている人たちは、自分の子どもや幼児全般に、自分たちが味わった苦痛を回避してあげようと努めることだろう。

*強硬手段に訴えずに教育するには、他にどんな方法がありますか?
 
 強要しなくても子どもが自然に学ぶには、遊びを通して教えるのが良い。どんな価値観や知識でも、遊びながら教えることができるものだ。
 子どもが悪いことをしたら、それが良くないことだったとわかるように、まずは一緒に話し合うべきだ。内省を手伝ってあげるには、「君がしたことと同じことを誰かにされたら、どういう気持ちかい?」という簡単な質問で充分だ。たとえば、その子が他の子をぶったとしたら、「君もぶたれるのが好きかい?」と訊いてみることが、反省を促す役に立つ。もめごとの解決には対話と内省とを優先し、自身の行為のどこが問題だったのか自覚できるように援助をし、してしまったことを償える可能性を提供してあげることだ。
 実のところ、世の中の新潮流には、上記の思想に沿って実施されている教育もあるのだが、それには、今よりも子どもたちに目をかけてあげる必要がある。

*昔と比べて今の教育の質が低下したと考える人たちもいます。新しい教育手法が手ぬる過ぎて、子どもたちが学ばず、先生たちを馬鹿にして、授業に集中しない、とのことですが、どう思われますか?
 
 それは完全な間違いだ。確かに、特に厳格な人たちの中には、かつての教育を懐かしんでいる人はいる。そういう人たちは大概、勉強には血の滲む努力が必要だと思っているのだ。
 過去の教会運営の学校は、毅然とした紀律をもって教えるという評判だったので、一部の親にとても重宝されていた。だが「紀律をもって教える」こととは、実際には、怖れや脅しや体罰などで、学校生活を辛くして、生徒たちを強制的に服従させるものであった。そのため、生徒は子どもというよりも、怯えた小さな徴兵みたいで、顔には幼児特有の自発性や感受性や喜びの微塵も見られなかった。しかも、神の名の下に、そのようなことが行われていたのだ。
 だが、そういう教育では、もっと従順で言うことを聞く子どもにすることは可能だが、それでもっと賢くできるわけではないし、より幸福にも、より自由にもさせられない。怖れが染みついて育った子には、大人になると欠けているものが多い。幼少期のトラウマを乗り越えられないと、気持ちの表現が困難になったり、自尊心が低下し、感情的な問題を抱えやすい。学校で必死に暗記させられた歴代の王様の名前をまだ覚えていられたとしてもだ。
 また、昔の生徒の方が現在よりも優秀で、習熟度が高かったというのも疑わしい。以前は、内容の暗記には力が注がれていたものの、論理的な思考は重視されていなかったからだ。授業内容が適切なものであったかどうかもおぼつかない。教育に向けられる資金も今より少なかったし、義務教育の期間も短かった。
 現在の教育は、生徒の思考力と推察力を伸ばし、暗記を少なくして、論理的に考えさせようとしている。また、学習到達の比率が高く落ちこぼれが少ない国は、紀律に基づく教育モデルを採用した国ではなく、全く逆に、斬新な教育モデルを適用した国であった。他の国々と比べて、教育への人的・物的な投資が多いことが、その差である。世界で最も良い教育モデルを有するフィンランドが、いい例である。

2015年1月25日日曜日

13 パートナーとの関係におけるエゴ的感情

―愛することへの怖れについて

 その名が示す通り、これは、苦悩の原因になるだろうと思って、愛を感じることに怖れを抱くことだ。
 これは、別れた相手に苦しめられたとか、第三者に恋愛関係を壊されてしまったなど、過去にトラウマ的な経験をした人たちによく見られるものだ。
 また、幼少期から感情を抑圧する教育を受けてきたために、感情面での自由が制約されてしまった人たちに見られる。このような人たちは、自由な気持ちを持つと、なんらかのお仕置きを受けるのではないかと怖れている。教えられた行動規範から見て自分の感情が正しくなければ、良心の呵責を覚えるように自己規制してしまうこともある。

 愛することを怖れる人は、自分をさらけ出すことで傷つけられるのが怖いので、人と交際する時に心を許さないことが多い。そのため打ち解けにくく、あるがままの姿を知るのは困難だ。無理解、拒絶、恐喝、脅迫、裏工作、中傷、攻撃を怖れ、自己をさらけ出さずに感情を隠すか押し殺しておけば、誰からも危害を加えられないと思っている。このため、感情的に孤立する傾向にある。被害を避けるには、それが最良の策だと思っているのだ。

*でしたら、危害を加えられないためには、感情的に孤立するのがいいのですね?
 
 そうではない。感情的な苦しみを怖れる気持ちから、外部の情緒攻撃から守ってくれそうな鎧に身を隠しても、その鎧自体が、人に愛の想いを伝えたり、他の人たちの愛を受け取ることを阻んでしまうので、幸せになれなくなるのだ。この場合は他人ではなく、自分で自分自身を傷つけているのだが、それで辛い苦しみが軽減されるわけではない。

*孤立してしまうと、どうして苦しむのか具体的に説明してください。

 よかろう。感情的に孤立している人が自分の類魂に出会ったとして、相手が気持ちを伝えて親しくなりたいと思ったとしてみよう。通常このような場合は、双方がそれぞれ感情を表明して、相手に愛を覚え、二人は幸せに感じるものだ。
 だが孤立してしまっている人は、怖れと不信感から、与えられる愛を感じ取れず、それと同時に、自分自身の愛の感情を抑圧してしまう。そして、そのことで苦しむのだ。またその人の類魂も、愛を伝えることができず、愛されていると感じられないので、苦しむことになる。
 おそらくその人の類魂は、何が起こっているのか理解できず、混乱してフラストレーションを覚えよう。そして、自分の気持ちに罪悪感を持ったり、感情を表現するのを怖れるに至る。好かれていないと思って、その人とパートナーの関係を築こうとするのをやめてしまうことさえある。
 こうして、愛への怖れと不信感に由来する感情的な孤立のせいで、一緒になって幸せになれた筈の二人の類魂たちは、お互いに別々の道をとり、幸福を味わえないまま歩んでいくのだ。

*でも、これまでの恋愛関係で悪い経験がなくても、愛することや恋することを怖れる人もいますよ。そういう場合は、どうしてでしょうか?
 
 感情的トラウマは、前世からのものである場合もある。過去の状況を覚えていなくても、そのトラウマを乗り越えていなければ、それが魂に深く浸透していて、その後の転生に持ち越され、怖れとなって顕れる。
 愛することを怖れている人たちは、自分たちは幸福とは無縁であり、本当に愛してくれる人などいるわけがないと思っているので、生き甲斐がない。暴力的な飼い主に長い間いじめられた挙句に逃げ出せた、野良犬のような気分である。ある日この犬は、感受性が高く可哀相に思い、家に置いて愛情深く世話をしてくれようとする人たちに出会い、中の一人がなでようとして近寄るのだが、虐待を怖れるあまり、その手が愛撫ではなく乱暴をするのだと思い込み、より良い生活をあてがってくれようとした人たちから、震え上がって逃げ出してしまう。これと似たようなことが大勢に起きている。怖れのせいで、人生で幸せになるチャンスを失ってしまうのだ。

*孤立主義と愛することへの怖れは、どう克服しますか?

 まず、自分が怖れを抱いていることと、そのせいで孤立してしまうこととを認めること。自分に自身の感情を自由に表現することを許し、それに従って生きるために闘う勇気を持ち、人生での決断の際に他者の意見に左右されず自己の感情を信用することで、怖れを乗り越え、孤立に打ち克つことができる。
 どんなに困難な状況に思えようと、決して感情を放棄してはならない。また、抑圧してもいけない。それが、幸せになるための唯一の方法だからだ。もう一度、愛への希望と信頼を取り戻すことだ。

*けれど、愛の感情のために果敢に努力したにもかかわらず、愛する人と一緒になるという目的を果たせなかった人や、他の人に妨げられて強要された関係を断ち切ることができない人もいます。前にも、性暴力についてや、感情における自由の権利を守ろうとして殺されてしまう女性のことを話しましたが、そういう人たちは闘いに負けてしまったのでしょうか?
 
 愛の感情のために闘う時に、失敗することなどない。人間の無理解とエゴのせいで、物質界で幸せになることができなかったとしても、霊界でその報酬を受け取ることを疑ってはならない。気持ちに正直に生きる努力において示された勇気は、進化の一つの成果であり、永久的に魂のものとなる。
 愛の感情が明確で、それに対して勇敢であるのは、これまでの転生で体験した試練において、自分自身の力で勝ち取った大変価値のある霊的な資質だ。魂は以後は永久に、この資質を持ち続けることになる。そしてこれによって幸せになり、惨めな目に遭った過去の罠にはまらないで済むのだ。

―感情的混乱について

 感情的混乱は、人が心にない気持ちを持とうと無理をしたり、本当の気持ちを抑圧したり、あるいはその両方の場合に起こる情動的な状態である。その状態に長く留まってしまうと、本当の気持ちと強要している気持ちとの区別が上手くつかなくなってしまう。これは、そういう人たちにありがちな混乱のことであり、感じていることと感じなければならないこととを混同し、気持ちが義務と入れ替わってしまうことだ。
 自分にない想いを無理強いする人は、その義務感によって疲労し虚しくなり、苦しむことになる。愛の感情は強要できず、自発的に生じなければ、存在しないからだ。
 また、本当の愛情を抑圧することで苦しんでしまうこともある。そういう気持ちになるべきではなく、その権利もないと思うからだ。しかし、感情的混乱から生じた自己欺瞞によって、自分が不適切な感情を抱いてしまったがゆえの良心の呵責から苦悩しているのだと思い込み、それが不幸の原因なので、感情自体を排除する努力をすべきだと考える。

 感情的混乱は、感情における自由を断念してしまった人によく見られる。自己の感情を放棄する要因の一つに、禁制的な道徳律に従った教育を授けられ、それを自分の中に取り込んでしまったことがある。この場合、その人の感性は、その道徳規範に強く規制されてしまっている。また、愛情の断念を強要された経験など、感情面に関連した何らかの辛い状況を人生で体験したせいである場合もある。

*感情的混乱が具体的にどういうもので、どう表れるのかが理解しずらいです。もっとはっきりするように例を挙げてくださいますか?
 
 いいだろう。教会で結婚式を挙げて、何年も婚姻生活を続けている人を例にしてみよう。
 その間にその人が、実際には自分に恋愛感情がなかったこと、またその結婚で幸せでないことに気づいたとする。この人が感情における自由を大事にするなら、すぐに伴侶を愛していないことに気づき、それを伝えて離婚を求めることだろう。
 だがこの人が、結婚とは一生涯続けるものであり、解消はありえないという宗教的な教育を授けられていたとしたら、義務感と他の人たちの否定的な反応への怖れから、無理してその関係を維持しようとするだろう。
 「結婚した相手を永遠に愛すること」が道義上の義務であると信じ切っているので、伴侶を愛するように自分を仕向ける。愛していないことを相手に気づかれないように、あらゆるサービスで悦ばせ、愛のために多大な犠牲を払っているのだと自分を信じ込ませようとするが、自己犠牲に感じ、義務と見なしていること自体が、実際は愛がないことを表している。真の愛を感じる者には、相手への奉仕が犠牲とはならず、好きでやる行為になるので、それに悦びを覚えるものである。

 
 別の選択肢は、伴侶の態度が悪いことにして破局を正当化するやり方だ。こうすれば、伴侶が決別の責任を負うことになり、当人は義務を怠ったことから免責される。つまり、「私は彼を愛しているのだけれど、構ってくれないし愛されていないと感じるので、もう一緒に暮らしていけないわ」、または「こんなことをされたから、もう許せないの」と弁解するのだ。

 もう一つのやり方は、伴侶の生活を不可能にして、相手に別れの決断をとらせる方法だ。このやり方では、愛し続けなければならない義務を公式に怠ったのは相手となり、当人は結婚の破局に関して免責される。世間の目には伴侶が悪く、自分を犠牲者に見せかけるが、事実は全く反対である。
 こうして、その精神的な葛藤の状況は、明らかに「伴侶を愛していない」のが原因であり、それには「別れる」という単純な解決策があるのに、感情的混乱のせいで、自分や他者に苦悩を引き起こす複雑な騒動へと発展させてしまうのだ。つまり、愛の感情が自分にないことを認めようせず、臆病で、宗教的な道徳律を破れなかったために、事実を偽装してしまったのである。

*感情的混乱はどのように乗り越えますか?

 自分に完全に正直になって、真の愛の感情と抑圧的な教育のせいで獲得された義務的な感情とを区別できるように、自分を掘り下げてみることだ。自分自身の感情がはっきりしたら、他者の意見に左右されることなく、授かった教育のあらゆる禁制や偏見のしがらみからも解放されて、気持ちに従って生きる勇気を持つこと。感情における自由の権利を侵害するものは、霊的視点からは誤った規則や見解であるので、配慮する価値がないのである。

2015年1月23日金曜日

12 パートナーとの関係におけるエゴ的感情

―恨みと恨みつらみ(悔しさゆえの恋愛の逆恨み)について

 恨みは、我々に被害を与えたと見なす人に対する敵意として特徴づけられる、エゴ的感情である。人は自己愛や感情が傷つけられたと感じると、自分に痛手を与えた相手を害しても、それが正当化されると思う。相手に損害を与えれば、スッキリすると思うのだ。つまり、仕返しや報復の願望が存在している。
 人が恨みに駆られて行動すると、自分に危害を加えた人だけでなく、世の中全体を敵に回す傾向にある。恨みの感情がその人の意志を支配してしまうと、他の人たちから向けられるあらゆる言動の裏に、自分を傷つけるという隠された意図があると思い込んでしまう。恨みがましい人は、極度な人間不信になりやすいのだ。

 恨みの一種に恨みつらみがあるが、別れることを決めたパートナーに対する反感は、このケースにあたる。
 失恋を根に持つ人は、自分に所属していたものを失ったと考えるので、感情的に傷つけられたと感じ、その喪失を受け容れるのが難しい。別れた相手が苦しむことを願い、苦痛を与える行動をとりやすい。自分を犠牲者だと思い、不幸の原因だと見なす相手を傷つける権利があると思うのだ。つまり、「僕を苦しめた仕返しに、君を苦しめてやる」というのがモットーとなる。
 恨みつらみを持つと、犠牲者意識、名誉毀損、裏工作、恐喝、脅迫、強制、攻撃など、復讐に有効な手段はすべて利用する。
 そして、暴力や脅迫を行ったり、ありもしない虐待を受けたと告発して、共有していた財産を相手から奪い取ろうと考えるなど、元パートナーに損害を与える行動をとっても正当化できると思い込んでいる。
 共通の子どもがいる場合には、子どもを最後の切り札として使い、別れた伴侶と子どもとの関係を阻害しようとしたり、悪いイメージを作り出して子どもと上手くいかないようにする。
 元伴侶が新たな関係を築くと―特にそれが当人たちの別れの原因になったと見なされれば―新しい恋人も恨みつらみを抱く人の攻撃の対象となる。

*でも、自分のパートナーに捨てられれば、誰でも気分が悪いものではありませんか?

 人は破局によって、悲しみ、失望、欲求不満、孤独感、郷愁などを感じるが、そのように辛く感じることと、相手が苦しむのを望んでわざと行動することとは、全く異なることである。
 根に持つ人も、愛の感情が貧弱であることの反映だ。真に愛する者は、相手が理解することのできない決断をした時でさえも、絶対に自分の愛する人を傷つける行動をとらない。それが、恨みつらみとなってしまうのは、まだ、感情における自由を尊重することができていないからだ。感情における自由は、誰と一緒にいたいか、いたくないかを決める権利を各人に与えているのだ。それが尊重できれば、別れることになってもそれほど苦しむことはないし、他の人たちもそれほど苦しめはしない。

*恨みつらみは、どう乗り越えたらいいですか?

 すべての解決策は同じこと、つまり、執着心の克服と感情面の自由の尊重、に根ざしている。能動的な執着心と嫉妬心のところで言ったことだが、誰も誰にも属さない、ということを認識する必要がある。伴侶に対する所有権などは存在しないので、相手に代わって決断する権利はないし、ましてや、その気がない相手に関係の継続を要求するなどできない。それゆえ、相手に被害を与える行動は、どうしても正当化することができない。

―恋愛感情の強迫観念と妄想について

 恋愛関係における強迫観念は、目標とした人を獲得、または所有したいという満たされぬ願いを反映している。願望が簡単に叶えられる場合は、それが達成されるや、興味を失う。だが困難であると、それは一種の挑戦となる。欲望は煽られ、満たされないと、強迫観念に変わる。大概の場合、これは当人の本当の気持ちを表してはおらず、性的もしくは愛情面の欲求不満や必要性が投影されたものだ。そのため、強迫観念は現実性に欠いている。
 強迫観念は、自己の気紛れを満たすことに没頭して長く暮らしてきた、移り気な人たちに特有なもので、願望が達成されないと、我を見失ってしまう。
 また、自分の感情を表すことが苦手な自己抑制的な人たちも、恋愛感情の強迫観念になりやすい。願望の対象となる人に魅了され、その人について妄想を抱く。それは現実に則さないものなのだが、願望を強くし、相手を獲得できれば幸せになれるという期待を膨らませる。

*説明を聞く限りでは、ドン・キホーテがトボソ村のドゥルシネア嬢に抱く気持ちを思い出しますが。

 それは、妄想や恋愛感情の強迫観念がいかなるものかを示すいい例だ。
 妄想は、気持ちよりも頭を働かせるものなので、自分の考えることが感じていることだと信じ込むに至る。感情をないがしろにしているので、相手も自分を想ってくれているのかは気にかけない。拒否されるのが怖く、それを認める気がないので、正直に行動できない人である場合が多い。
 どんな対価を払ってでも、そして必要とあれば相手の意志を無視してでも、願望を抱いた人を獲得するのが目的である。そのため、堂々と自分の意思を伝えることがなく、相手に嫌だと言う機会を与えずに、欲しいものを手に入れるために狡猾に立ち回る。
 自分が肉体的に美しい場合は、誘惑すれば相手の意志と感情を曲げることができると思っている。頭がいい場合は、相手の弱みを研究し、その知識を使って、相手を口説いたり褒めたり、欲求や気紛れを満たしてあげて、手に入れようとする。このようなやり方で相手を獲得できない場合、その人の魂が鈍感ならば、恐喝、脅迫、強制、暴力など、相手の自由意志をさらに侵害する手段に訴える。

*望みの人を手に入れたらどうなるのですか? 二人とも幸せになるのでしょうか?

 いや、しばらくの間は望みのものを獲得できたという満足を感じているが、現実が期待したほどのものでなかったと見るや、大きな失望を味わい、急速にその関係に幻滅していく。以前は神や女神のように思えた、今やパートナーとなった相手は、ごく普通の平凡な人として目に映るので、次第に興味を失っていく。
 その関係が上手くいかないのを相手のせいにして責めるが、本当は、幻想だけで愛の感情がなかったことが不満の原因なのだ。それなのに、他の人が自分のパートナーに関心を寄せていると思うと、今度は所有欲を出す。それは、相手を苦労して獲得したトロフィーだと見なし、自分に所属していると考えているからだ。
 そうなると、自分たちの関係が幸福でないにもかかわらず、相手がそこを抜け出して別の場所で幸せになることも許さないので、自分が生きることもできず、相手を生かすこともできない。
 それはまるで、親に欲しいおもちゃを買ってもらえないと地団太を踏むのに、手に入れるとちょっと遊んだだけで飽きてしまう、我がままな子どものようだ。別の子どもがそのおもちゃを欲しがると、また興味を示すのだが、それはもう一度惹かれたからではなく、自分の所有物だと見なしているものを他人に譲りたくないからなのである。

*恋愛感情の強迫観念はどう克服したらいいですか?

 能動的な執着心、つまり愛には所有権がつきものだという概念を克服する必要がある。自分が愛しても相手がそうでないのなら、無理やりそれを変えてみせようとせずに、その現実を受け容れるべきである。人の感情とは自由なものであり、強要はできないし、またするべきではない。そうしても自分と相手を苦しめるだけだ。
 自己抑制的な人に強迫観念がある場合は、臆病と抑圧に打ち克ち、拒否を怖れて自分の考えを隠してしまわずに、常に正直に気持ちを表明する勇気を持つことで乗り越えることができる。そうすれば、自己の交友関係も本物となり、好きな人に対して幻想や妄想を抱かずに済む。相手に応えてもらえれば、その人との関係も自然なものとなるし、嘘をついたり裏工作をする必要もない。また、相手にその気がなくても、つき合えたかもしれないのにチャレンジしなかったせいで駄目だったのではないか、という考えに囚われることなく、心穏やかに新たなページを開くことができる。

―恋愛における罪悪感について

 これは人が、感じていない愛情を持とうと無理をしたり、自分の気持ちを抑圧するなどして、自分自身の感情の自由を強要した場合に起こる罪悪感である。受動的な執着心を患う人によく見られるものだ。
 恋愛における罪悪感が起こるケースの一例としては、カップルの一方が他方に恋愛感情を抱いていないことに気づいたものの、一緒になって年月も経ってしまったために、相手を愛して関係を維持することを義務付けられていると思う場合である。つまり、そうするのが自分の義務だと思って、伴侶に対してパートナーへの愛を覚えようと努めるのである。それには、相手を性的に満足させる、世話を焼く、一緒にいる時間を作るなど、パートナーに対してすべきであるとされる行為が含まれる。こういうことを全部するのは、相手を愛していないことに罪悪感を抱いているからで、自分に愛がないことを何かで埋め合わせすべきだと思い込んでいるからだ。
 恋愛における罪悪感が起こる別のケースは、ある人に恋をしたものの、同時に自分自身の道徳観から見て、それを不適切であると判断した場合である。その例としては、すでにパートナーがいる人を愛してしまった場合、または当人にパートナーがいる場合だ。この場合は、愛するべきではない「不適切」な人を愛してしまったことで罪悪感を抱き、不道徳、あるいは禁断だと見なすその恋心を抑圧したり、断念したりする。こうして自分自身で不幸になる道を選ぶ。

*すでにパートナーがいるのに、別の人に恋をしてしまった場合は、一体どうするべきなのでしょうか?

 その人が好きなようにすればいいのだ。だが、幸せになりたいのであれば、感情のために闘うべきである。

*それは、それ以前の関係を切って、愛する人と一緒になるべきだという意味ですか?

 愛のない関係は、愛が欠如しているという時点で、すでに壊れているのだ。ただそれを認めて、それに従って行動すればよい。前にも話したろう。伴侶を愛していないのであれば、正直になって、それを伝える勇気を持つことだ。そうしてから、正式にカップルの関係を終了させることだ。これは、他の人を愛しているか否かとは別問題だ。
 ましてや別の人を愛しているのであれば、自分の本当の気持ちを認めて、愛している人に伝え、相手もそう想ってくれているのかを見てみればよい。そして、相手がどういう決断をしようと、それを受け容れることだ。二人が相思相愛であり、カップルとして一緒になる意思があるのなら、誰にも何にもそれを妨げられないし、妨害すべきでもない。まして、罪悪感を持つ必要などない。霊的には罪悪感を持つ理由は何もないからだ。

*でも前述のような状況では、罪悪感が芽生えるのが普通だと思います。どうやって、恋愛における罪悪感に打ち克つことができるのですか?

 罪悪感を持ってしまうのは、君たちがカップルの愛を所有的または執着的なものだと誤解しているからで、所有権つきの結婚や婚姻の不解消など、同じように誤った道義上のルールを作り上げてしまったからだ。
 罪悪感に打ち克つためには、愛の感情は、自由で自発的なものなので強要できないしすべきでもないということと、どんな枠づけも意味を持たないということを理解する必要がある。人は誰でも、好きな人を自由に愛する権利を持つ。誰のせいでもなく、自分自身ですら、感じられない気持ちを抱いたり、感じている気持ちをなくすように自分に課すことはできない。我々はまたもや、感情における自由の尊重、という同じ原点に辿り着いたのだ。
 前述のケースでは、当事者の感情面の自由を尊重すべきであり、ありもしない犯罪行為に仕立てて不当に罰してはならない。人生をまるごと変える羽目になろうとも、真の愛の気持ちを持つことで、誰一人として罪悪感を覚えるべきではない。罪悪感という感情は、打ち克つことができなければ、愛の感情を存分に感じて味わうことを阻む障害となり、そこから湧き起こる幸福を享受できなくなる。

2015年1月21日水曜日

11 パートナーとの関係におけるエゴ的感情

パートナーとの関係におけるエゴ的感情

*自分の双子の魂に出会っていながら、それを大切にできず、他の人たちと性関係を持ちたいと思ったり実際に不義を働いてしまう場合もあるでしょうか?

 その通り。確固たる愛がなかったり、それを慈しみ育む努力を怠ったり、エゴ的な感情を介在させてしまった場合に、そういうことがありがちだ。
 愛にあまり敏感でない魂たちは、未発達の愛の感情よりも生物的な性本能の方が強いので、魂の幸せよりも肉体を満足させることに熱心だ。この段階においては、性欲は基本的に、肉体的な魅力と目新しさに対して芽生える。そして肉体が充足すると、その関係に対して興味を失い、新たな関係を追い求める。この時期においては、特定の人をえり好みすることがない。
 魂が愛の感情を発達させていくにつれて、性欲が満たされても心の虚しさを感じるので、ただの性的な関係には飽き、それ以上のもの、つまり愛し愛される関係を求める。そして、ここで問題となってくるのが、魂の類似性だ。と言うのも、それがなければ、内面の充足感は得られないからだ。そうして、愛の感情のため、パートナーとの関係で幸せになるために奮闘し始める。
 魂はこの道程において、無数の恋愛関係を経験し、すべて―本能、愛情、エゴ的感情―を味わい、体験の幸・不幸の度合いに応じて、少しずつ自分の感受性と愛する能力を磨き上げていく。こうして、エゴ的感情を排除していき、愛の感情を育んでいく。回を追うごとに、自分の感情がより明確になり、気持ちに従って生きる場合に、自信を持つことができるようになる。また、他者の感情における自由に対しても、段々と尊重できるようになる。

*パートナーとの愛情を邪魔してしまうエゴ的感情の代表的なものは何ですか?
 
 いろいろなものがある。執着心が主なものだが、そこから独占欲、犠牲者意識、嫉妬心、恨みと悔しさ、恋愛感情の強迫観念、恋愛における罪悪感、愛することへの怖れ、感情的混乱などの他のエゴ的感情が派生する。

*これらのエゴ的感情がそれぞれどういうものなのか説明してくださいますか?
 
 もちろんだ。執着心から始めよう。これについては以前に説明しているが、ここではもっと深く見てみよう。

 ―執着心について
 
 執着心は、一般的には「所有的な愛」として知られる。執着に苦しむ者は、カップルの関係であれば、パートナーから意志や自由の一部を譲るよう強要されても当然だと考えており、同時に、自分も相手の意志や自由に関する権利を得ていると思っている。
 執着心の二つの側面を、能動的な執着心と、受動的な執着心とに区別してみよう。

 能動的な執着心は、愛する者は自分に所属しているので、自分がその人に関する特定の権利を持つと考える人に見られる。それは、他者の意志を所有したいという欲望となって顕れ、自分が望むことをさせるためにその人の人生をコントロールしたがる。一言で言えば、能動的な執着心がある人は、パートナーの意志に自分の意志を強要する権利があると思っている。自分の望みを叶えて悦ばしてくれる人といたがり、そうするのがパートナーの義務の一部であるので、相手に要求する権利があると思い込んでいる。

 受動的な執着心は、カップルの関係ではそうすべきだと思い、自分の自由や意志を相手に侵害されることを許容してしまう人につきものである。受動的な執着を患う者は、自分自身の自由や意志を放棄して、パートナーの満足と悦びに身を捧げる傾向がある。

 伝統的な男尊女卑的教育は、男性の能動的な執着心を承認し、女性に受動的な執着心に馴染んで生きるように教えているので、執着心を二つの側面から増長させている。
 男尊女卑の夫婦関係では、夫は妻を支配する権利があると思い込んでいるので、能動的な執着心から行動し、自らの意志を強要して妻の自由を制限する。一方、妻は義務として、自分の意志と自由の一部を夫に譲り渡してしまうので、受動的な執着心で行動する。

*一般的には、男性が能動的な執着心から行動し、女性が受動的な執着心から行動する、ということでしょうか?
 
 そうではなく、その反対のケースも多い。同じ人に能動的・受動的な執着があることもあるし、同時に二人共に、その両方があることもある。能動的・受動的な執着心があるかどうかは、各魂の進化レベルと関係している。
 能動的な執着心は、愛をあまり知らず、愛するより望んだり必要とすることの多い、虚栄心の段階でより顕著に見られる。パートナーとの関係でも、相手が自分の願望や欲求を満たしてくれることを求める。そういう虚栄心の段階の魂が男性に転生すると、男尊女卑の教育を利用して自分の高圧的な行動を正当化し、女性になった場合には、別の強みを使って支配的になる。
 受動的な執着心は、通常は、愛される必要性があり、より愛する能力の高い、自尊心の段階で見られることが多い。相手を悦ばせば愛してもらえると思い、愛する能力が大きいためにその関係に尽くしてしまい、極端な場合は、自己の自由と意志まで放棄してしまう。

*執着心は、どうやって克服するのですか?

 能動的な執着心は、愛することと所有することは別物であると気づけた時に乗り越えられる。本当に人を愛するのであれば、人生のどんな場面においても、その人の意志と自由を大事にすることから手がけねばならない。自分自身の自由や意志を尊重してほしいと望むようにだ。
 受動的な執着心は、人を愛しても、自分自身の自由や意志を断念することには繫がらず、相手に好きになってもらうために、それらを放棄することは意味がないと理解した時に越えられる。本当に愛してくれる人なら、自由や意志の放棄を引き換え条件とはしないからだ。愛する見返りとして君に犠牲を強いる人は、君を愛してはいないし、今後も愛してはくれないだろう。本物の愛の感情というものは自然に湧き起こるもので、君がすることに条件付けられるわけではないからだ。

―独占欲と犠牲者意識について
 
 自分の願望や欲求を満足させるために他者の気を引こうする欲望を、独占欲と呼ぶ。独占欲に支配されている人は、いつも自分のことだけを考え、他の人たちを強要したり義務付けて関心を引く。このような人たちはパートナーとの関係では、愛情の絆がある伴侶から目にかけてもらうのは当然の権利だと主張して、ほぼ独占的な奉仕を要求するので、しばしば相手の自由や意志を侵害する。そして、気にいるほどの関心を引き付けられないと、犠牲者のふりをして気を引こうとする。
 犠牲者意識は、憐憫の情を引き出しながら相手の関心を自分に向けようとする人に特有のエゴ的感情で、同情してもらうことによって、相手を思い通りにしたり、利用しようとしている。犠牲者意識は、相手の自由意志にはお構いなくその気を引こうと強いるので、一般的に独占的であり、独占欲との関係が深い。自己成長しようと努力せず、他者に自分の試練や責任を果たしてもらおうとするので、臆病者でもある。
 これは大変巧妙な人心操作の手口で、コントロールされる側は、往々にして気づかずに意のままになってしまう。犠牲者意識は罪悪感を弄ぶ場合が多く、要求を満たそうとしてくれない場合に、相手が罪の意識を持つように仕向けるのだ。
 たとえば、他者の注意を集めようとして、自分の病気を逆手にとることがある。痛みを偽ったり大げさにしたりして、責任を逃れたり、他の人に代りにやってもらうおうとする。
 当人の不快感の主な原因でもないのに、自分が鬱的なのは幼児期に愛されなかったせいだとするのも、同情を引いて独占欲を正当化するのによく利用される口実だ。
 パートナーとの関係では、いつも望みを叶えてくれるサービス精神旺盛な人を相手に選びやすい。いつも肉体的あるいは精神的に具合が悪いふりをして、自らパートナーに依存することで、常時世話をしてもらって、全責任を押しつけようとする。だがこのような態度は、しまいにはパートナーの息を詰まらせ、疲弊させてしまう。ニセ犠牲者に独りではやっていけないと思い込まされて、詳細に至るまで相手を満足させて悦ばせることに追われるパートナーには、事実上独自の生活がないからである。
 犠牲者のふりをする人たちは、彼ら自身で不快感を募らせ、改善する気がない。それを、注目を集めるための武器として利用するからだ。

*独占欲と犠牲者意識はどのように克服すればいいですか?
 
 他者の人生をコントロールするのをやめ、その自由意志を尊重することだ。誰に対しても何も要求したり押しつける権利がないこと、ましてや相手との愛情の絆をその口実にしてはならないのだと気づくことである。同時に、いつもよその人に解決してもらおうとしないで、臆病、怠け癖、安楽さを克服して、自分で課題に立ち向かう必要がある。

―嫉妬心について

 嫉妬心は、自分のものだと見なす人を失う怖れから怯えることだと定義できる。カップルにおける嫉妬心は、相手を所有物と見なして自分にだけ注目するよう強いる、能動的な執着心を抱いた、所有欲が強い独占的な人に特有だ。そのため、パートナーが他の人たちに関心や愛情を示したりすると、激怒する。
 嫉妬心は、パートナーへの恒常的な不信感や、自分に不実かもしれないという強迫観念として顕れることが多い。この強迫観念から、浮気の可能性を回避するのを口実に、相手の人生を徹底的にコントロールしようとする。自分の伴侶と交友する人たち、特にパートナーとしてライバルになる可能性があると見なした人たちを目の敵にする。
 また嫉妬心は、攻撃欲、独占欲、犠牲者意識、恨みなどの他のエゴ的感情も増長させて、パートナーの人生を操るためにも使われる。交際中に嫉妬深かった人は、関係が破綻すると、恨みがましいことが多い。
 嫉妬深いのは、愛の感情が貧弱であることの反映である。第一に、相手の幸せに関心を持たないからだ。パートナーを大いに傷つけることなど構わず、自分の支配欲を満たすことだけを考えている。第二に、二人の関係を保つには愛情の絆だけで充分だと信じていない。そのために無理強いしたり脅したりする。本当の愛があれば、愛の感情を信頼し、第三者の介在を怖れたりはしない。三角関係になるとすれば、それは両者の愛が乏しかったか、存在していなかったことの顕れだ。
*嫉妬心はどう克服するのでしょうか?
 嫉妬というのは、愛の感情が存在せず、能動的な執着心しかないことを表している。嫉妬心は、愛の感情がないことを認識し、自分の能動的な執着心を認めることで、克服する。乗り越えるには、相手を所有したいという欲求を放棄し、その人の感情面の自由を尊重せねばならない。
 真の愛は自由であり、強要できず、自然に湧き起こるものである。二人の結びつきは、関係を維持するための義務や努力を必要とすることなく、この自発的で自由な相互愛の感情に基づいていなければならないのだ。  

2015年1月19日月曜日

10 愛の法則から見たカップルにおける不実


愛の法則から見たカップルにおける不実

 
*カップルにおける忠実と不実についてはどうお考えですか?

 義務に対して忠実になることもできるし、愛情に対して忠実になることもできる。霊的には、愛情に対して誠実であることしか価値がない。


*それは、はっきり言うとどういうことですか? 

 パートナーとの関係で二人に愛情も類似性もない場合は、気持ちではなく、強制された約束のように、義務感から誠実であろうとする。だが、本当の愛があれば、忠実であろうとして努力しなくても、自然にそうなれるものだ。
 君たちは、司祭か判事の目前で署名をした結婚と呼ばれる契約は重視しているが、夫婦の間に愛が存在するかどうかは軽視している。だから、夫婦に愛がない場合であっても、あらゆる婚外交渉を―そこに真の愛が存在しようとも―非難する。そして、夫婦関係における不義をとやかく言うが、霊的に存在する唯一の不実は、感情における不実であると知らねばならない。
 別の人に恋愛感情を抱きながらもその気持ちを断念し、それが正しく善いことで天の掟と合致すると自分に言い聞かせるか、あるいは人から言いくるめられて、生涯にわたって愛のない結婚生活を送る人もいる。そういう人は、司祭が結婚式の日に厳かに言った「神が結び合わせたものを引き離してはならない」という誓いを守るために自己を犠牲にしたので、極めて不幸であるのだが、他人からは申し分のない道徳心とふんだんな徳を持った聖人のように見なされる。
 しかしながら霊的な視点では、愛の感情に対しての忠誠心しか霊的な価値がないので、違った見方をされる。そういった人たちは、彼らの社会規範や慣習上は、非の打ちどころのないイメージであるが、自己の感情に対して不実であるため、霊的進化においては停滞してしまっている。そのため、霊界に戻れば無意味な自己犠牲を払ったことに気づくだろうし、その次の転生では、今生勇気がなくてできなかったこと、つまり感情のために闘うべく、戻る必要があるのだ。
 一方、自己の感情をおざなりにし、自由に愛して幸せになろうとする人を非難することに悦びを覚え、強いられた結婚のしがらみに囚われて不幸になると満足するような、他者の感情を抑え込んでしまう者たちは、以後の転生においては、彼ら自身が、同じように利己的な者たちの抑圧的な態度の犠牲者となろう。
 その一方で、自己の感情のために闘って愛する者のそばにいるために、無理解・屈辱・恐喝・肉体的または精神的な虐待を受け、所属する社会や共同体、そして家族から不貞・不実・不道徳とされた人が、実は真に感情面で成長をしている人なのである。その人が、「魂の法則」の「愛の法則」と本当に調和している人であり、物質界で苦労して獲得した真の幸福を、霊界で味わうことができる人なのである。霊界に行けば、もう何の障害もなく、感情を自由に表現できるからだ。


*まだ理解できません。例で示していただけると、よりはっきりすると思います。

 よかろう。愛していない男性と結婚しているある女性が、別の男性と愛し合っていて、その人と一緒になりたいと思っているとしてみよう。
 そして二人の男性が共に―この場合は夫と愛人ということになるが―、その女性に性関係を求めているとする。この場合、君たちの世界の貞操の観念では、愛人と性関係を持つことは、夫に不貞を働くことになるので、悪いことだとされる。だが、夫とは性関係を持ち愛人とは持たないという反対の決断をすれば、彼女が愛しているのは愛人であり夫ではないので、自分の感情に対して不実であることになってしまう。


*さっぱりわかりません。それなら、婚外関係を持つのはいいことなのですか?

 思っている以上にわかっている筈だ。だが、疑問が残らないように説明しておこう。霊的には、地上の契約には人間が付与する効力以上の拘束力はないのだ。つまり、婚姻契約の履行のために―いかなる他の理由であろうと―誰かを愛するように強要されることも、その人への忠誠を強制されることもないのだ。
 実際には存在しない愛情があるふりをして、相手を騙すことが間違いなのだ。自分の気持ちに正直になって、その通りに行動するのが公正だろう。先の例においては、妻は夫を愛していないのだからそれを夫に説明して、隠すことなく愛する人と心の通う関係を築くために、愛のない関係に終止符を打つのが、理にかなっているだろう。
 一緒に婚姻届を出した相手やパートナーになる約束をした相手に恋愛感情がないことを知りつつ、便宜や必要上、または罪悪感や世間の反応を怖れるがために、関係を維持している人もいる。そのことについては、もう充分話したであろう。
 一方、誰を愛しているかを自覚しながらも、怖いのか楽だからか、愛する者と一緒になるために闘わず、苦しまずに済むようにその想いを抑圧して否定する方を選び、現世的に快適な関係に甘んじている者もいる。だが、そうしても、類魂との相愛という本質的な要素が欠けているので、充足できないのである。世間体を繕った生活をしているが、内面は虚しく、苦悩を押し殺している。
 自分の気持ちに正直になって、心の想いを反映させた人生を生きることだ。そうすれば、不毛な苦しみを避けることができる。愛の感情のために闘う勇気を持つのだ。それが唯一、努力し甲斐のあることだ。


*でも、自分の気持ちのために闘おうとしても、事情があってその目的を遂げることが不可能だということがありませんか? 先ほどの例だと、もし夫が別れることに承知しなくて、関係の維持を妻に強いたらどうなるのですか? 
 実際のところ、男性側が関係を断つことを認めないために、元夫や元パートナーに殺害されてしまう女性がいますよ。あるいは、自国の法律で離婚が禁じられていて、夫を捨てた妻に死罪が言い渡される場合などはどうしますか? そういう女性にはどんな選択肢があるのでしょう?

 確かに多くの困難に直面することだろう。それは、残念ながら君たちの世界では、特に弱者の感情面での自由が、全くと言っていいほど尊重されていないからである。
 だが過去の時代と比べれば、感情における自由はもっと大事にされるようになり、今では多くの国々の法律でも権利として採択されている。西洋諸国においては、離婚は権利として法律で認められており、性暴力から守ってくれる法規もある。それ以外の国々では、確かに我慢のならない状況で、まだまだ改善する余地があるがね。
 しかし、全世界を敵に回そうとも、闘う価値はあると言っておこう。
 愛の感情のために奮闘することは、霊的進化と幸福の基盤となるので、それに勝る動機は存在しないのである。愛のために闘うことを決意した者は、愛する類魂に再会する時に、至福という一番大きな報酬を得て、思う存分、愛を感じ味わうことができるのだ。人間の利己的な足かせのせいで、その試みにおいて肉体の命を失ってしまったとしても、またそのために物質界で成就できなかったとしても、今生で蒔いた種は霊界で褒美として刈り取ることができると確信すべきである。
 反対に、自分の感情を抑圧して否定して、そのための努力をせず、我慢して愛のない関係を保つことを自分に課した者は、勇気がなかったことですでに苦しんでいるが、今後の転生では、今生でペンディングとなった課題を克服しに戻らなければならない。