2015年1月30日金曜日

16 愛の法則から見た隣人愛

愛の法則から見た隣人愛

 
*これまで、パートナーとの関係や子どもたちとの関係など、個人的な関係を集中的に見てきましたが、無条件の愛というのは、そういう個人的な関係よりも、もっと奥が深いものだと思うのです。

 もちろんだ。愛に限度はない。もっと沢山の人を愛することのできる魂の能力が増すにつれ、血の繫がりがあるかどうかにこだわらずに愛せるようになる。最終目標は、分け隔てせずに、創造の全存在を包括する無条件の愛に行き着くことだ。
 イエスが「汝の隣人を自分のごとく愛しなさい」、「汝の敵を愛せよ」と君たちに伝えた時には、このことに言及していたのだ。

*進化するのは、どうしてこんなに骨が折れることなのでしょう? イエスが言ったような、無条件に愛せるようになる進化レベルに、もっと早く辿り着く方法はないのですか?
 
 これは、これまで我々が話してきたことの中核である。
 イエスのレベルまで進化するためには、エゴを排除して愛の感情を発展させることに大変な力を注がねばならないのだが、それは、たやすいことではないのだ。一度きりの人生での仕事ではない。何千もの転生、何十万年もの歳月がかかる。しかも、すべての魂がこの目的のために生まれ変わってきているにもかかわらず、一度肉体を持つや、何のために生まれてきたのかを思い出せないでいる。
 大多数の人びとは、肉体生があるところまでしか意識を向けておらず、物的な福の神が笑っている限りは、物欲を満たすことに人生を費やしている。そして、実存に関する内省はどれも無意味なたわ言であり、時間の無駄だと考える。彼らは、気ままな生活をやめたくないので、何の変化も起こしたくないのだ。
 物質主義的な科学教育の下で知性を発達させて、自身の心の危惧を回避しようとする人たちは、存在に関わるあらゆる疑問を嘲り、無益だと見なしている。

 また、霊性と宗教とを混同している人もいる。特定の儀式を模倣しさえすれば、「天国」での特権的な地位を獲得できると考えて、宗教というたやすい方の道に引き込まれる。そして、神も喜ぶだろうと自分を偽ることによって、霊的な努力を宗教的な熱狂に置き換えてしまうのだ。

 実存に関する疑問を、心の中ではっきり自覚できる人たちも、確かに存在する。目覚めが起こるのは、人生でひどい逆境を体験しながらも、諦めずに説明を見出そうとした結果である場合が多い。人生の意義について、宗教や物質至上主義の科学がもたらす、偏った不完全な説明では納得しなかったのだ。しかし、質問に対して満足のいく答えが得られないので、絶望してしまう。

 無関心、無知、不信感、熱狂や絶望から大多数の人びとが人生の真の意味を見出すことができずにいるというのが、以上の総合的な結論である。したがって、人生を理解しないまま生きており、そこから学べないので、人生において進化することができない。つまり、エゴをそぎ落として愛の感情を育む努力が、ほとんどなされていないということだ。

*僕が理解したところでは、仏教では、人間の諸悪の根源が願望であり、願望をなくすことで心の平安と魂の成長がもたらされると教えているそうですが、これに関してはどうお考えでしょうか?
 
 その願望がどこに由来するものかで、区別する必要がある。利己的な願望と愛の感情に裏付けられる願望とは、異なるものである。
 利己的な願望を排除することとすべての願望を捨て去ることとを混同し、自身の意志を放棄しなければ霊的な進歩は望めないとの結論に達する人もいる。これは大きな勘違いなのだが、他者を意のままに操ろうとする者たちにつけ込まれる要因となる。
 君たちが仏陀と呼ぶ者は、人間の諸悪の根源がエゴであると見抜き、霊的に進歩するにはエゴを根絶すべきであると知っていたので、人が幸せになるために心から排除すべき衝動などの、利己的な願望のことを指していたのである。しかし、いつものことだが、歳月の経過と共に仏陀の言葉と教えも誤って解釈されてしまった。霊的な進化が不充分な者にとっては本物と偽物とを見分けるのが困難なので、スピリチュアルな様相を呈しているだけで、歪曲された教えを正しいものだと思い込んでしまうのだ。

*具体例がありますか?
 
 性に対する姿勢である。多くの宗教で教え込まれているように、性的な願望は、それが願望であるがゆえに、進化したければ排除すべきものだと考えて、どんな状況でも自身の性願望を抑圧せねばと躍起となる人がいるが、これは大きな誤ちである。性的な願望は男女の愛の表れとして目覚め、幸福をもたらしてくれるので、それを拒むのは間違っているのである。
 よく理解している者なら、闘って克服していかなければならないものは、情欲や色欲から生じる性的願望、つまり、利己的な性欲であると気づくであろう。悪癖が顕現した欲望としてではなく、性欲を愛の感情と一致させることに進歩があるのである。したがって、エゴ的な性欲の表れである情欲や色欲を排除することと、性欲すべてを不潔だと見なす純潔主義とが同じであると思ってはならない。
 性欲がパートナーへの愛の反映、愛情の表れであることは、前にも話したろう。純潔主義は神聖なものではなく、偏見と抑圧に満ちている。他人をとやかく言う者ほど、先入観と鬱積したものを隠し持っているのである。

*先ほど、霊性と宗教とを履き違える人がいると言われましたが、霊性と宗教とはどう違いますか? 同じことだと思っている人がいます。

 同じではないよ。霊性は、魂独自の資質と能力で、回を追うごとに強く進化の後押しをしてくれる。進化とは、自由に愛する能力を発達させていくことを意味し、そうすることによって、感情、感性、意識、理解、叡智、幸福の、より高度な段階へと徐々に達していけるのだ。それは、いろいろな理由があるが、自分や自分を取り巻くものの存在意義を知り、自分と他の創造物たちや神との絆を深め、自己を内包する宇宙の仕組みを、それを司る法則も含めて、知るためである。
 宗教とは、人間が創った階層構造を持つ組織で、一連の教義上の信念の周りにしがみついている。これらの信念は、的を得ていようがいまいと議論が認められず、権威者の見解次第である。つまり、その階層構造で一番権威を持つ者に、皆が信じるにふさわしい真の信仰を決める権力があるのだ。

*隣人愛は、大概の一神教の基本を成すものですし、神を信じる人たちも世界には沢山いるのに、どうして、こんなにもエゴだらけで愛のない世の中なのでしょうか?
 
 そのことは前にも話した筈だ。多くの宗教では、愛という言葉は死語に等しく、人を惹き付ける呼び水として使われているだけで、実践して見せることも、手本を示すこともない。しかも、愛は、それより重要視されている他の多くの規則や信仰の陰に、隠されてしまった。だが、これらの規則や信仰は、愛そのものやや「魂の法則」と矛盾するものなのだ。たとえば、議論の余地を与えることなく、一連の教義を信者に押しつける者は、信仰の自由を妨げるので、自由意志の法則に違反する。
 宗教は、人間のエゴと結びついた現象である。少数の者の利己的な便宜によって、人の霊性が操られているからだ。過去の時代においては、支配的な宗教の権威者たちが自らの信条を力づくで課し、それに従わなかった者たちは抹殺された。彼らの権力は非常に強かったので、異議を唱えることは不可能だったし、しかもそれは命懸けであった。現在では勢力が弱まったとはいえ、宗教はまだ多くの国々で、人の自由を弾圧するくびきとなっている。

*人が愛に向かって進化する上で、宗教が障害になると言われるのですか?
 
 愛に向けて進化する上で障害になるのは、人間のエゴであると言いたいのだ。エゴは大変巧妙に人の霊性に忍び込み、それを歪めて操作をし、その霊性とエゴが混ざって出来上がったものから、宗教が生じる。
 多くの宗教の起点が、真の霊的な教えを説いて人びとの心に浸透させることができた、高次の存在たちの活動にあったことは話したろう。だがその教えは時間の経過と共に、目立ちたがりで野心家の未進化の魂たちによって、彼らの権力と富への野望を満たすために、偽造されて歪曲されてしまった。本物の「魂の法則」は、エゴによって突き動かされたそのような者たちの影響を被り、儀式や式典で飾り立てられ見せかけの霊性で覆われた、「エゴの諸法」に置き換えられてしまった。

*本物の「魂の法則」が「エゴの諸法」に置き換えられてしまった例を示してください
 
 そうだね、君たちの世界では、「霊的裁きの法則」を利己的な「漏斗の法則」と入れ替えてしまった。つまり、自分たちには許容間口を広くし、他の者には狭くしているのだ。
 人は、自分が得することは公平だと思い、他者を得させることは不公平だと見なす。同じことでも、それをするのが自分自身なのか、それとも他者なのかによって、違う目で見る。君たち自身の利己的な言動は正当化するくせに、他人であれば、同じことをしていても熱烈な批判をする。そして、影響力の強い者の規則が、他の者たちに強要される羽目になる。
 たとえば通常権力を握っている者たちは、法外な給料、不相応な年金、税金の免除など、他の者たちが持たない特権を享受しているが、その一方で、他の市民にはずっと厳しい規則を守るように強いている。

 
 君たちは「愛の法則」と「富と成功とを充足させる利己的な法則」とを入れ替えてしまったために、個人の興味や物的な願望を満たして、成功や名声、気紛れで便利な快適な生活を手に入れようとすることが良いことだと理解し、そのためには仲間を苦しませようが意に介さない。そして反対に、そのようなものがほんの少しでも奪われてしまうと悪いことだと思うのだが、それは違うのだ。
 きちんと理解してさえすれば、良いことをするというのは「愛の法則」と調和した行動をとるということで、悪いことをするとは「愛の法則」と反する行為、一般的には苦悩や不幸を引き起こすエゴ的な行為、を意味するとわかる。

 
 さらに「自由意志の法則」は、「強者の法則」に置き換えられた。それはつまり、一番強い者が一番弱い者に自分の好き勝手を押しつけている、ということである。
 だから、君たちの世界では、発言者が重視されるのだ。その人がどういう役職、タイトル、身分なのかが見られ、話の真偽は問いただされない。質素な者は本当のことを話しても聞き入れられず、権力者、有名人、成功者、その他人間が発明した地位やタイトルに昇りつめた者は、何を言おうと一目置いてもらえるので、好き勝手が言える。そのような有名人の多くが、一般人を操り狂信的にさせる偽りのメッセージを発信しているのだが、なおかつ、他の人びとよりも優れていると見なされている。
 「強者の法則」が幅を利かせ「自由意志の法則」が軽視されているのは、宗教の権威者に関しても明らかだ。自らを霊的に進化していると見なす者たちが、実は最も不寛容で理解がなく、頑なで、規則や儀式を厳密に守ることだけに熱心だというのは、なんたることか! そして従わない者を強く非難し、他者の行為や行動を安易に告発するのだが、自身の利己的な悪癖を直すことには力を注がない。霊的な美徳とは、他者の考えに対する寛容と理解ではなかったのかね? 彼らのどこにその美徳があるのかね?

*でも僕は少なくとも今日では、大勢の人たちが、そのような利己的な態度や教会の中で霊性が操作されていたことに気づいて、真の霊的な知識を探し求め始めていると思っています。
 
 それは肯定的なことだが、知るだけでは不充分だ。真実を見分け、虚偽と区別することが必要だ。なぜなら、霊的な知識を多少なりとも身につけていたとしても、それらがすべて本物だとは限らないからだ。最も大事なのは、愛の感情とエゴについて自分が学ぶことを実践に移すことだ。そうしなければ進歩もあり得ない。
 私が言っておきたいのは、特定の霊的な知識を得ることと霊的に進歩することとを混同してはならない、ということだ。愛の感情を発達させて前進するのに役立てるべき学習知識が、上品に取り繕って霊性を装ったエゴを野放しにするために使われたら、教会の高位神官が陥ったのと同じ罠に落ちてしまう。

*それは、どういうことですか?
 
 様々な出処の霊的な知識を知りたがり、それらを勉強することに非常に熱心な人たちが沢山いる、ということだ。しかし知り得た知識を、利益をあげるためや名声・ファンの獲得や自己顕示の手段として利用して、他の人たちより優れていると思い込めば、実は、愛の感情を育む代わりに、自己の虚栄心の奔放を許すことになる。だが、自分自身を見失うだけに留まらず、それを真似て後に続く者たち混乱させてカオスをもたらし、他の人びとを霊性の道から逸脱させてしまうことが、もっと罪深いのだ。
 イエスは正にこのことを告発し、当時のユダヤの聖職者たちを「盲人たちの盲目の導き人」と称したのである。それゆえ、他者に布教しようと勇む前に、最初に自分自身をよく見ることが非常に大切となる。なぜなら、初めに自分を見ないせいで自己のエゴに気づかず、エゴを排除しようと努めない者は、奉仕の行為において、他の人びとの手本になる資格がないからだ。

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