2015年1月25日日曜日

13 パートナーとの関係におけるエゴ的感情

―愛することへの怖れについて

 その名が示す通り、これは、苦悩の原因になるだろうと思って、愛を感じることに怖れを抱くことだ。
 これは、別れた相手に苦しめられたとか、第三者に恋愛関係を壊されてしまったなど、過去にトラウマ的な経験をした人たちによく見られるものだ。
 また、幼少期から感情を抑圧する教育を受けてきたために、感情面での自由が制約されてしまった人たちに見られる。このような人たちは、自由な気持ちを持つと、なんらかのお仕置きを受けるのではないかと怖れている。教えられた行動規範から見て自分の感情が正しくなければ、良心の呵責を覚えるように自己規制してしまうこともある。

 愛することを怖れる人は、自分をさらけ出すことで傷つけられるのが怖いので、人と交際する時に心を許さないことが多い。そのため打ち解けにくく、あるがままの姿を知るのは困難だ。無理解、拒絶、恐喝、脅迫、裏工作、中傷、攻撃を怖れ、自己をさらけ出さずに感情を隠すか押し殺しておけば、誰からも危害を加えられないと思っている。このため、感情的に孤立する傾向にある。被害を避けるには、それが最良の策だと思っているのだ。

*でしたら、危害を加えられないためには、感情的に孤立するのがいいのですね?
 
 そうではない。感情的な苦しみを怖れる気持ちから、外部の情緒攻撃から守ってくれそうな鎧に身を隠しても、その鎧自体が、人に愛の想いを伝えたり、他の人たちの愛を受け取ることを阻んでしまうので、幸せになれなくなるのだ。この場合は他人ではなく、自分で自分自身を傷つけているのだが、それで辛い苦しみが軽減されるわけではない。

*孤立してしまうと、どうして苦しむのか具体的に説明してください。

 よかろう。感情的に孤立している人が自分の類魂に出会ったとして、相手が気持ちを伝えて親しくなりたいと思ったとしてみよう。通常このような場合は、双方がそれぞれ感情を表明して、相手に愛を覚え、二人は幸せに感じるものだ。
 だが孤立してしまっている人は、怖れと不信感から、与えられる愛を感じ取れず、それと同時に、自分自身の愛の感情を抑圧してしまう。そして、そのことで苦しむのだ。またその人の類魂も、愛を伝えることができず、愛されていると感じられないので、苦しむことになる。
 おそらくその人の類魂は、何が起こっているのか理解できず、混乱してフラストレーションを覚えよう。そして、自分の気持ちに罪悪感を持ったり、感情を表現するのを怖れるに至る。好かれていないと思って、その人とパートナーの関係を築こうとするのをやめてしまうことさえある。
 こうして、愛への怖れと不信感に由来する感情的な孤立のせいで、一緒になって幸せになれた筈の二人の類魂たちは、お互いに別々の道をとり、幸福を味わえないまま歩んでいくのだ。

*でも、これまでの恋愛関係で悪い経験がなくても、愛することや恋することを怖れる人もいますよ。そういう場合は、どうしてでしょうか?
 
 感情的トラウマは、前世からのものである場合もある。過去の状況を覚えていなくても、そのトラウマを乗り越えていなければ、それが魂に深く浸透していて、その後の転生に持ち越され、怖れとなって顕れる。
 愛することを怖れている人たちは、自分たちは幸福とは無縁であり、本当に愛してくれる人などいるわけがないと思っているので、生き甲斐がない。暴力的な飼い主に長い間いじめられた挙句に逃げ出せた、野良犬のような気分である。ある日この犬は、感受性が高く可哀相に思い、家に置いて愛情深く世話をしてくれようとする人たちに出会い、中の一人がなでようとして近寄るのだが、虐待を怖れるあまり、その手が愛撫ではなく乱暴をするのだと思い込み、より良い生活をあてがってくれようとした人たちから、震え上がって逃げ出してしまう。これと似たようなことが大勢に起きている。怖れのせいで、人生で幸せになるチャンスを失ってしまうのだ。

*孤立主義と愛することへの怖れは、どう克服しますか?

 まず、自分が怖れを抱いていることと、そのせいで孤立してしまうこととを認めること。自分に自身の感情を自由に表現することを許し、それに従って生きるために闘う勇気を持ち、人生での決断の際に他者の意見に左右されず自己の感情を信用することで、怖れを乗り越え、孤立に打ち克つことができる。
 どんなに困難な状況に思えようと、決して感情を放棄してはならない。また、抑圧してもいけない。それが、幸せになるための唯一の方法だからだ。もう一度、愛への希望と信頼を取り戻すことだ。

*けれど、愛の感情のために果敢に努力したにもかかわらず、愛する人と一緒になるという目的を果たせなかった人や、他の人に妨げられて強要された関係を断ち切ることができない人もいます。前にも、性暴力についてや、感情における自由の権利を守ろうとして殺されてしまう女性のことを話しましたが、そういう人たちは闘いに負けてしまったのでしょうか?
 
 愛の感情のために闘う時に、失敗することなどない。人間の無理解とエゴのせいで、物質界で幸せになることができなかったとしても、霊界でその報酬を受け取ることを疑ってはならない。気持ちに正直に生きる努力において示された勇気は、進化の一つの成果であり、永久的に魂のものとなる。
 愛の感情が明確で、それに対して勇敢であるのは、これまでの転生で体験した試練において、自分自身の力で勝ち取った大変価値のある霊的な資質だ。魂は以後は永久に、この資質を持ち続けることになる。そしてこれによって幸せになり、惨めな目に遭った過去の罠にはまらないで済むのだ。

―感情的混乱について

 感情的混乱は、人が心にない気持ちを持とうと無理をしたり、本当の気持ちを抑圧したり、あるいはその両方の場合に起こる情動的な状態である。その状態に長く留まってしまうと、本当の気持ちと強要している気持ちとの区別が上手くつかなくなってしまう。これは、そういう人たちにありがちな混乱のことであり、感じていることと感じなければならないこととを混同し、気持ちが義務と入れ替わってしまうことだ。
 自分にない想いを無理強いする人は、その義務感によって疲労し虚しくなり、苦しむことになる。愛の感情は強要できず、自発的に生じなければ、存在しないからだ。
 また、本当の愛情を抑圧することで苦しんでしまうこともある。そういう気持ちになるべきではなく、その権利もないと思うからだ。しかし、感情的混乱から生じた自己欺瞞によって、自分が不適切な感情を抱いてしまったがゆえの良心の呵責から苦悩しているのだと思い込み、それが不幸の原因なので、感情自体を排除する努力をすべきだと考える。

 感情的混乱は、感情における自由を断念してしまった人によく見られる。自己の感情を放棄する要因の一つに、禁制的な道徳律に従った教育を授けられ、それを自分の中に取り込んでしまったことがある。この場合、その人の感性は、その道徳規範に強く規制されてしまっている。また、愛情の断念を強要された経験など、感情面に関連した何らかの辛い状況を人生で体験したせいである場合もある。

*感情的混乱が具体的にどういうもので、どう表れるのかが理解しずらいです。もっとはっきりするように例を挙げてくださいますか?
 
 いいだろう。教会で結婚式を挙げて、何年も婚姻生活を続けている人を例にしてみよう。
 その間にその人が、実際には自分に恋愛感情がなかったこと、またその結婚で幸せでないことに気づいたとする。この人が感情における自由を大事にするなら、すぐに伴侶を愛していないことに気づき、それを伝えて離婚を求めることだろう。
 だがこの人が、結婚とは一生涯続けるものであり、解消はありえないという宗教的な教育を授けられていたとしたら、義務感と他の人たちの否定的な反応への怖れから、無理してその関係を維持しようとするだろう。
 「結婚した相手を永遠に愛すること」が道義上の義務であると信じ切っているので、伴侶を愛するように自分を仕向ける。愛していないことを相手に気づかれないように、あらゆるサービスで悦ばせ、愛のために多大な犠牲を払っているのだと自分を信じ込ませようとするが、自己犠牲に感じ、義務と見なしていること自体が、実際は愛がないことを表している。真の愛を感じる者には、相手への奉仕が犠牲とはならず、好きでやる行為になるので、それに悦びを覚えるものである。

 
 別の選択肢は、伴侶の態度が悪いことにして破局を正当化するやり方だ。こうすれば、伴侶が決別の責任を負うことになり、当人は義務を怠ったことから免責される。つまり、「私は彼を愛しているのだけれど、構ってくれないし愛されていないと感じるので、もう一緒に暮らしていけないわ」、または「こんなことをされたから、もう許せないの」と弁解するのだ。

 もう一つのやり方は、伴侶の生活を不可能にして、相手に別れの決断をとらせる方法だ。このやり方では、愛し続けなければならない義務を公式に怠ったのは相手となり、当人は結婚の破局に関して免責される。世間の目には伴侶が悪く、自分を犠牲者に見せかけるが、事実は全く反対である。
 こうして、その精神的な葛藤の状況は、明らかに「伴侶を愛していない」のが原因であり、それには「別れる」という単純な解決策があるのに、感情的混乱のせいで、自分や他者に苦悩を引き起こす複雑な騒動へと発展させてしまうのだ。つまり、愛の感情が自分にないことを認めようせず、臆病で、宗教的な道徳律を破れなかったために、事実を偽装してしまったのである。

*感情的混乱はどのように乗り越えますか?

 自分に完全に正直になって、真の愛の感情と抑圧的な教育のせいで獲得された義務的な感情とを区別できるように、自分を掘り下げてみることだ。自分自身の感情がはっきりしたら、他者の意見に左右されることなく、授かった教育のあらゆる禁制や偏見のしがらみからも解放されて、気持ちに従って生きる勇気を持つこと。感情における自由の権利を侵害するものは、霊的視点からは誤った規則や見解であるので、配慮する価値がないのである。

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