2015年1月18日日曜日

9 愛の法則から見たパートナーとの関係6

*カップルの愛は利己的で無条件の愛と矛盾するのではないか、という先ほどのテーマに戻りましょう。それがイエスの教えでないとしても、少なくとも教会はそのように解釈しました。それはイエスが言ったとされている「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも嫌悪してわたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。」という一節(ルカによる福音書14章26節)によるのだと思われます。
 教会はこの一節を、隣人を無条件に愛するためにはパートナーや家族とそれ以外の人たちとを分け隔てしてはいけない、という意味に取ったのでしょう。パートナーや子どもへの愛に囚われたままでは、他者に尽くすことができなくなりますから。僕は、カトリック教会はそのために、聖職者に貞潔を誓わせ独身で通させたのだと思うのですが、間違っているでしょうか?

 君が取り上げたのは、実際にイエスが言ったことの目も当てられない悪訳だ。文中の「嫌悪する」という言葉を「執着をなくす」と置き換えてみれば、彼が言いたかったことがわかるだろう。イエスの意味することは、(彼にとっては)無条件の愛に至るためには、家族内でよく見られる執着心と所有的な愛に打ち克つ必要があるということだ。このような利己的な愛の様相は、往々にして人の自由を束縛し、隣人への無条件の愛の使命を果たそうとする際の制約となってしまうからだ。
 それゆえ、イエスの言葉として解釈されていることは、事実に全く反している。パートナーとの愛を経験したことのない者は、無条件の隣人愛を体得できないと言っておこう。パートナーへの愛の感情は、人が愛のために闘う時に最も強いものである。そしてこの感情が、人生を生きていく上で、支えとなってくれるのだ。
 イエスのように、他者のために尽くす使命を果たす場合には、内面の力が不可欠だ。イエスは、何を愛しているか、誰を愛しているか、なぜ愛しているかに確信があったので、内に力を秘めていた。霊界から派遣される本物は皆、類魂との愛を感じ経験したことがあり、その愛から、任務を成し遂げるための力を得ているのだ。この感情を否定すれば、虚しい限りで、勇気と意志力に欠け、そのようなミッションにつきものの障害に直面すると意気消沈してしまうのだ。

*僕はそういう存在たちは神への愛に支えられていて、それで充分なのだと思っていました。

 神への信心は力を与えてくれるが、人間の進化段階にいる者は自分と同じ者、つまり類魂の愛を必要とするのだ。人に幸せをもたらし、あらゆる面で満たしてくれるものをなぜ拒絶せねばならぬのだ? 一体、何が問題なのだ? 
 パートナーとの愛を放棄する者は、進化するどころか、魂が進化の道程で滞ってしまうことを告げておこう。この件に関する君たちの偏見、つまり、男女の愛を放棄すればさらに進化できて隣人愛の能力が高まると考えることは、人間の意志を服従させるために教会が作りあげたもので、「魂の法則」に反している。なぜなら、感情における自由の邪魔をし、幸せになることを阻んでいるからだ。

*隣人を助ける仕事に集中するには、パートナーが邪魔になる場合があるのではないですか?

 仕事の邪魔になるのは、パートナーがいることではなく、執着心のせいだ。どちらか一方が他方の自由を束縛できる権利があると思い、自分の所有物だと見なして拘束したり、他の人たちをパートナーの注目を奪い取った敵だと見なす場合である。これは、自分と似ていない相手と一緒になった場合に、よく起こることである。類似性に欠けていることから無理解となり、人生の意義に関する意見の相違が出てくるのだ。
  類魂同士のカップルでも、エゴ的感情が介在するとそういうことになり得る。それはほとんどが執着心であるが、怖れなどの別のものもある。一般的には、愛する者が苦しむことへの怖れや、危険を伴う使命に身を奉じる場合にその人を失う怖れである。
  だが、パートナーが似通っていて、怖れやその他のエゴの形態を克服している場合には、何の障害ともならない。全くその反対に、一緒に転生できれば、二人が同じように集中して共に使命に従事するので、より深い取り組みとなる。両者共、お互いの愛に支えられ励まされ、それによって、決意して進むことにした道のりの辛さも和らぐのだ。

*でもイエスには存命中、誰もパートナーがいなかったようですが、隣人を愛し使命を果たすのには支障がなかったのではありませんか?

 このことは以前に話したであろう。イエスも皆と同じだ。彼にも相似の魂はいるものの、同時期に一緒に生まれてはこなかった。だがそれで彼女とのコンタクトがなかったわけではない。イエスのような進化段階にいる存在にとっては、愛する者が同時に転生していなくても、それが、決定的な障害とはならない。彼らは高い能力と感性を持っているので、物的な次元から比較的簡単に身を解き放つことができ、霊的な次元で類似する存在たちと出会うことが可能なのだ。

*でしたら、特定の人たちを他の人たちよりも愛することは利己主義にならないのですか?

 君は類似性の相違に過ぎないものをエゴだとしている。似ている者を愛する方が、似ていない者を愛することより常に簡単だ。類似性に差がある存在たちも同じ強さで愛することができるのは、大変進化した魂だけだ。私は、無条件の隣人愛に達するためには、初めに、類魂との愛を経験する必要があると言っておく。その愛が他者への愛を養う力であるからだ。
  したがって、他者を無条件に愛することを望みながら、パートナーとの愛を抑制するか否定する者は、絶対に真の隣人愛には到達できないのである。内面を潤してくれる源がなければ、他者に愛を与えて少しでも感謝されない目に遭えば、たちどころに空になってしまうからだ。
  進化の十段階目に到達するには、一段階目から始めて、中間レベルを超えなくてはならないのだが、君たちは、一段階目もよくわからないまま第十レベルに着きたいと思っている。双子の魂のように、似通った者への愛を否定している現状で、自分と似ていない者を、一体どうやって愛するつもりだろうか?

*ですが、最初からから真の愛に出会えてそれを見分けるのは、そんなにたやすいことではありません。

 見分けるのが簡単でないからこそ、恋愛感情がないことを自覚したら、自分に方向転換を許してあげなければならない。本当に悲しいことは、愛のない結びつきではなく、愛がないと気づいてからも解放を阻む地上のしがらみを作って、無理やりそれを継続させようと頑張ることだ。

*若者の方が、誰と一緒にいたいか、いたくないかを決めるのは自由だとはっきり知っていて、続けたくない関係であれば、それほど悩まずに断てると思いますよ。

 そう、その通りだ。今の若者は、特に西洋諸国において、それほど抑圧的な教育を受けていないので、より自由である。特にもっと性的な自由を謳歌していて、ある人と性関係を持っても、その人と生涯共にすることを義務付けられるわけでない、と知っている。このこと自体はいいことだ。
  若者の問題は、望む時に関係を切れるかではなく、真の愛をどうやって見つけるかである。大多数が愛とは異なる理由で、一緒になってしまっているためだ。彼らの人生にはより大きな自由があるのに、感情を育む好機として利用されていないのだ。

*では、どういう理由で一緒になるのでしょうか?

 特に青年期に多いのが、肉体的な魅力と知的興味の類似性による結びつきだ。魅力的であることと一目置かれることを何よりも重視するので、性的魅力のある人や、有名だったりお金を持つ人がパートナーに望まれやすい。
  肉体的な魅力のある若者は、そのありがたい身体のお陰で候補者に欠かないことに満足していて、自分も肉体美で相手を選びがちである。このような関係は、通常、はかないものである。性本能が満たされるや相手に興味を失い、より新鮮な関係を求め出す。だが愛のない性行為は、感情ででしか満たすことができないものをセックスで満たそうとするので、感受性の強い者の心に虚無感を生み、そのため、多数の若者が深いうつ状態に陥るなどの代償を支払うことになる。
  一方で、魅力がない若者も同じものを求めるが、自分にない肉体美しか評価されないので、望むものを手に入れるのが難しく、虚しい努力に失望する。自分の外見にコンプレックスを抱き、引け目を感じ、パートナーを見つけられる可能性はほとんどない、と思うものだ。ルックスのせいで、コンプレックスを持って自虐的になると、よりスリムになりたいとか魅力を増して好かれたい、などの願望で沈み込んでしまったり、拒食症や過食症などの重い摂食障害を招く。

*若者はもっと自由な時代に生まれているのに、なぜそうなってしまうのでしょうか?

 今は性的にはより自由であるが、まだ感情の自由がないのだ。だから、感情の抑圧に打ち克つ必要がある。
  君たちの教育の仕方は、以前として物質主義的で、精神性に欠け、子どもの感情面における教育がまだ不充分である。愛の感情を発展させながら幸せを追求せよ、と教えることが一度もないし、愛に価値を見出すことも、人生を霊的な視点で捉えることも教えない。
  反面、子どもの頭脳や知性を伸ばそうと一生懸命で、将来職業に就くために必要な知識を与えている。学校の授業教育とはそういうものだ。学校外では、家庭で経験することも、マスメディアや交友関係が教えることも、幸福は虚栄心を満たすことで獲得できる、というものにつきる。つまり、他の者よりも秀でている肉体的魅力、知性、成功、名声、権力、お金などの表面的な資質を重視するように教育している。
  多くの若者が、満たされにず虚しく思える人生から逃れる手立てとして、気紛れや快楽の充足、娯楽、愛情のないセックス、ドラッグなどに逃避している。感情で満たされるべきことを快楽と娯楽で埋めようとするが、愛がないので心が沈む。大勢の若者が苦しんでいるのは、虚栄心を満たす願望に取りつかれているか、愛の感情に対する感性が抑圧または否定されているせいだ。人生の意義を見出す必要があるのだ。
  現代の若者たちは、人生には気紛れや快楽を満たして楽しむ以上の意味があると理解する必要がある。人生を真に充足させるためには、完全に自由に、感情と霊性とを育んで味わう必要があるのだ。こうして初めて、幸せになれるのである。

*若者たちが消費主義、世俗主義、不特定多数とのセックスに傾倒する原因は、昔の道徳観を失ってしまって、霊的に後退してしまったからだと考える人たちがいますが、これは本当ですか?

 いや、すでに話した通り、内面の虚無感から逃れるために物質主義へと走るのだ。過去においても、物事が今以上によかったわけではない。以前の若者たちが今日のような行動を見せなかったとしたら、それは今よりも価値観が高かったからではなく、もっと抑圧されていたせいと経済的に困窮していたからだ。
  宗教的な潔癖主義は性的な自由を押し潰し、人目を忍ぶ行為に貶めた。かつての若者たちは、感情的にも性的にも自由がなく、宗教的な厳格さの前ではあらゆることが罪だとされて、抑圧されて怯えながら暮らしていた。以前は性的な関係はほぼ完全に禁じられており、夫婦の間でなければ認められなかった。また、大半の結婚が愛のない強いられたものだったので、性体験は多くの人にとって耐え難く、トラウマを伴うものであった。
  社会的な体面を維持する外側の顔と、安全弁代りにタブーや禁制だらけの生活へと逃れる隠れた顔との二つを持ち、二重生活を送っている人も大勢いた。二つのモラルで行動するやり方は、現在に至るまで続いている。特に抑圧的な教育を受けた年配の人は、人から言われることを気にして、二つの顔を持つのに慣れている。