2015年1月17日土曜日

8 愛の法則から見たパートナーとの関係5

*そう断言することは、結婚の破棄は聖なる法律を破ることだと考えている人たちをびっくりさせると思いますよ。ほとんどの一神教の宗教では―カトリック教会を含みますが―離婚に反対ですよね?

 多くの宗教は離婚に反対だが、当人の意志に反して関係の継続を強いることは「魂の法則」の中の、「自由意志の法則」に違反することになるのだと言っておこう。
 愛がなく空虚なのに、怖れからか、その方が楽だからか、あるいは、離婚すれば婚姻非解消の宗教戒律に違反して神に背いてしまうと信じて、愛情のない夫婦関係を課し続ける人びとが大勢いるのを見ると、大変悲しく思う。結婚を一生続けるように人間に要請するのは神であると多くの人に信じ込ませたせいで、愛のない関係から生まれる苦悩と引き換えに、「天国への切符」を手にすることができると信じる人もいる。
 だが、それは違うのだ。自分の感情に従って生きることを放棄した人には、何の霊的進化もない。神が義務付けるのではなく、その人を強要するのは、当人自身か、社会規範か、教わった宗教戒律である。婚姻非解消を要求するのは神でも高次の霊性でもなく、感情までを売買の対象物とする、エゴにどっぷりと浸かった人間の手による法律であることをはっきりさせておかねばならない。

 *天の戒めでないのなら、婚姻非解消という概念はどこで生まれたのですか?

 人間の利己的で物質主義的なメンタリティーは、何もかもに値をつけ、ありとあらゆるものの所有権を決め、それを自分自身の命よりも大事にして、そのために殺したり殺されたりしてする。君たちは、すべてが売り買いできるものと決めつけている。不可能でさえなければ、息を吸う空気や太陽の光線でさえも独占し、「これは私のだ!」と主張する野心のない者たちに、目の玉が飛び出るほどの値段で売りつけることだろう。
 それと同様に君たちは、個人や意志や感情さえも、お金で買えると思っている。結婚と呼ばれる契約書にサインすることで、ごく普通の商取引をしていると思っているようだ。それによって、ある者は、人の意志と感情を買い取ったと思い込み、他の者は、契約によって自分の意志や決定能力、自由と感情とを伴侶に譲ることを義務付けられていると信じ込む。

 この利己的な錯乱の極めつけは、神が契約の証人にされてしまっている点だ。そのため、自分自身や他の人たちの幸せが踏みにじられようが、何が何でも契約を貫かねばならないと思い込むに至った。そうでないと、銀行の借金を払い戻せないと資産を没収されるように、死後にすべての「財産」を剥奪されることになるからだ。言っておくが、これは全部、人間のエゴによってでっち上げられた大嘘である。
 神は、一人ひとりに感情や思考における完全な自由を与えてくれているので、感じることや考えることの自由のために闘うことは、いかなる天の法則にも背くこととならない。どんな手段や状況であろうと、自由でいる権利や、自分自身の人生や感情に関して決める権利を、君たちから奪える者などいやしない。まして、神の名をその口実にすることなどできやしない。

*これを、婚姻の破棄に傾倒した話に受け取る人もいることでしょう。

 認めがたいかもしれないが、お互いの愛情に基づかない夫婦は、実際には夫婦として存在していないのだ。一生にわたり、署名入りの契約書を維持することができ、世間には仲の良いイメージを作れたとしても、それは表面上の結束に過ぎない。上辺だけの世間体は取り繕えたとしても、それぞれが心の中では実情を知っているので、自分自身の人生の虜にされた気がして、苦々しさ、空虚感、悲しみを噛みしめ、不幸であることだろう。さらに、それを誰にも知られまいとすると、独りで苦しむこととなり、余計に耐え難いものとなる。

*人には別れたければ別れ、離婚したければ離婚する権利があって、それが神の怒りに触れることはない、と強調するのに一生懸命なようですが。

 それは、このことが多くの人にとって深い悲しみの原因となっているからで、それを変える必要があるからだ。人には誰もに幸せになる権利があり、幸福を妨げる聖なる法律など存在していないことを知るべきである。霊界は全くその逆に、生きているすべての人が幸せになれるようにと願い、幸福への道を発見できるように可能な限りの手助けをするのである。
 その道程で出現する障害を取り除く手伝いをしたいのだが、地上の法律は幸福への行く手を阻む巨大な岩のようだ。しかも、君たちはその岩が神によって置かれたものと思い込んでしまっている。もうこれ以上長く、この状態を容認しておくことはできない。

*カップルの関係を合法化するためには結婚すべきではない、ということですか?

 霊的な視点からは、二人の間の相互愛だけが真の結びつきだとされており、署名済みの結婚証書の有無には全く関係がない。
 君たちの物質界では、配偶者や一族の子孫を保護するために、たいてい契約にサインを交わす必要がある。たとえば、どちらか一方が死亡した際に遺族年金を受け取れるためや、故人の伴侶が身内の者に家を取り上げられたりしないためであり、これは理解し得ることである。だが、これは物的に有効であるに過ぎず、その以上の価値を見出そうとすべきではない。
 つまり、結婚の繫がりを相手の自由を束縛する口実に利用すべきではないし、相手が別れる決意をしたら絶対に拘束したり恐喝すべきでない。霊的な観点からは、自由意志の法則に反する行為となるからだ。

*恋愛感情がないにもかかわらず、夫婦の関係を維持しようとする動機の話に戻りますが、別れた場合に物的な支えを失うことを怖れて、住まいと生計を保証してくれる生活を続けようとする人がいますが、そういうケースについてはどうですか?

 実際には物的な利便性を重視する結びつきであることを反映している。当初はそれが結婚の動機でなかったとしても、今は継続の口実となっている。このような人たちは、自分の感情の自由か、それとも安全性と安楽か、そのどちらに価値を置くのかを決める必要がある。
 そういう理由から夫婦関係を維持することを決めれば、物的には何の不自由もないだろうが、愛がない暮らしとなるので、感情面では空っぽである。関係を続けるのは、愛の感情を大事にしない物質主義の人であろう。
 だが、何にも増して幸せになることを望む人であれば、物的にはゼロからのスタートとなろうが、怖れに打ち克ち、喜んでそうするに違いない。感情における自由を回復することができるからである。

*二人の間に子どもがいる人たちの多くが、もう一つの理由として、子どもを守るために別れないと言います。そういう人たちは、少なくとも子どもが成人するまでは、我慢したいそうです。本人の幸せよりも子どもの幸福を優先し、子どもへの愛から正しい行動を取っていると思っています。カップルや夫婦が破綻すれば、子どもに感情的なトラウマを与えると考えて、それを回避しようとしているのですが、これは正しい判断でしょうか?

 いや、そうではない。離婚する時には、子どもと離縁するのではなくパートナーと別れるのであるから、それは誤った結論である。両親が子どもを愛しているならば、一緒にいなくても子どもを愛し続けられる。
 「子どものために我慢する」という言い訳は、個人的な幸せよりも家族の結束が優先される伝統的な宗教教育を授かった人たちの間によく見られるものだ。
 むしろその関係を長く続けると、反対に、子どもを苦しませてしまうことになる。愛し合っていない二人が一緒に住もうと無理をすると、周りまで感応して不幸せになるので、子どもの情緒には否定的な状況となる。子どもたちは多くの場合、両親の喧嘩や口論に居合わせて、親の不快感や苦悩を感じ取る。そして、これこそが子どもたちに感情的トラウマをもたらすのである。「あなたがいなければ離婚していた」と言う親もいるので、両親が不幸せなのは自分のせいだと感じながら成長する子どももいる。こういうケースでは、親は自分の意気地のなさを子どものせいにしているのだ。

*でも子どもたちにしてみれば、両親が別れたら、生活が激変しますよ。両親の離婚が、大勢の子どもたちにとってトラウマだというではありませんか?

 子どもが小さい場合は、まだ充分な知識がなく教育の枠付けに縛られていないので、両親の破局自体は何の感情的トラウマともならない。自分の生活が変わっても、双方の親と会うことができ、両親も子どもに対する愛を示し続けることができるのなら、子どもはゲーム感覚で変化を捉える。
 幼い子どもを最も苦しめることは、自分が武器にされて離婚の原因となる夫婦喧嘩の渦中に投げ込まれることと、夫婦間の争いやののしり合いや脅し合いを目にしなければならないことである。したがって、それらを回避できるのであれば、離婚する場合でも、子どもたちのトラウマを避けてあげることができる。

*子どもが大きい場合はどうなるのですか? 大きい子は大半が原因をわかっていて、自分の生活が変わるのを嫌がりますが。

 離婚は多くの場合、何年も我慢した挙句に起こるものだ。自覚のあるなしにかかわらず、その間に子どもたちに伝えられてきたメッセージは、個人の幸せよりも家族の結合が大事である、ということだ。それゆえ、子どもたちはその視点から起きている物事を解釈するようになる。両親の破綻は、それまで正しく善いと信じてきたことと反対に見えるので、否定的に受け留める。現実を子どもたちがを受容できるためには、それまでの教育を打壊して、今度は、感情の自由と個人の幸福が最も大切であり、何人も絶対にそれらを放棄すべきではない、とわからせてあげる必要がある。

*幼児期を通して別の規則を教えられてきた子どもが、思春期近くになって、急にそういうことを受容するのは困難だと思いますよ。しかも、当人自身の親に教わったことですから、父親や母親が理性を失ってしまったとでも考えるに違いありません。

 それは子どもがどれほど成熟しているかによる。他の子よりも理解力のある子どももいる。両親よりも現実を自覚していて、新たな一歩を踏み出すように親に助言して、後押ししてくれる子どもたちもいる。最も進化した子どもが一番理解を示し、受け容れるのも上手い。授かった教育よりも、その状況を理解できる進化のレベルがあるからである。
 だが、その時に受け容れ難かったとしても、将来大人になって自分も同じような状況に置かれた時に、許容することができるであろう。つまり、将来カップルの関係を持って恋愛感情がないことに気づいた時に、その関係を続けるべきか終わらせるべきかの決断に際して、この世の何を引き換えにしようと、自らに継続を強いるべきでないと明確に自覚できるということだ。両親の例から、自由になるのは悪いことではないと知っているからだ。幸せになれない関係を断つ際も、もっと確信と勇気があり、罪悪感が少なかろう。
 しかし、その反対の見本であれば-両親が気持ちに反して共同生活の継続を課したならば―当人もその例を真似て、親と同じ不幸な人生を繰り返すであろう。

*これまで私たちが話してきたことをまとめると、カップルの愛は兄弟愛や親子愛よりも大切な愛であるというメッセージを伝えているような気がしますが、カップルの愛を兄弟愛や親子愛と分け隔てするのは、利己的ではないでしょうか? 違いを設けることは、無条件の愛の概念と矛盾していませんか?

 どういう根拠でそう言っているのかね?

*おそらく、イエスの示した手本だと思います。イエスは、カップルの愛についてだけ特別に話したことはないですから。

 情報の大元が、イエスの言葉がほとんど反映されていない教会の福音書なのだから、君にはそれはわからない。だが私が、理解力のあった身近な者たちに、イエスが男女の愛についても語ったことを伝えよう。イエスは彼らに、完全に似通った相互の愛のみが二人を結びつける絆であり、カップルになるか別れるかはそれぞれが完全に自由に決めるべきである、という教えを説いた。
 この言葉は今では、普通の理性がある人にはもっともで、何も特別に聞こえない。しかし、当時の人のメンタリティーは理解に欠け、感情面の自由を尊重することなどゼロに等しかった。一夫多妻制は頻繁であり、大半の結びつきが愛のない取り決められた結婚で、夫婦のどちらか一方または双方が、当人の意志を考慮されないまま強要されて結婚していた。

*今日においては、取り決め結婚は無理強いであるとわかっている人が多く、この慣習に反対しています。

 そう考えるのは、ある程度の個人の権利と自由を守るために法整備が進んでいる西洋社会においては当たり前かもしれないが、今日においてでさえ、取り決め婚の慣習は多くの国で一般的だ。そういう諸国では、通常「宗教的」性質を帯びた指導者や体制によって奨励され制定された法律が、「神の名の下に」年端のいかない女児をも大人と結婚させることを容認して、女児・女性たちへの肉体的・精神的な搾取や性的な虐待を法的に庇っている。そうして、この搾取的習慣に従わなければ、穢れた不純な人であり、神の計画に背いたと思い込ませている。それにもかかわらず、女性たちが非人間的な状況から逃れようとする時には、彼女たちを犯罪者扱いして、拷問して残酷に殺してしまう場合さえある。
 取り決め婚は制度化された売春の一形態だと知ることだ。それは、表面的には「潔白」であるが、当人が選んでもいない人と一緒にさせて、性的な関係を持つことを強要するのであるから、自由意志、中でも感情における自由に対する重大な侵害である。

*それにしても、現在では少なくとも西洋の国々では、大多数の人びとが自由とは何かを知っていると思います。そして個人の自由は法律によって保護されて、離婚する権利が認められており、その妨害をする人たちは罰せられる筈ですが、そうではないのでしょうか?

 確かにその通りだ。そして、これは無数の犠牲や闘いを経て獲得された、大変大きな霊的進歩の象徴なのだ。残念なことに、宗教権威者たちはこの動きに抵抗するだけで、またしても、人類の霊的な成長に寄与する代わりに、できる限り邪魔をして遅らせようとしたのである。中でも最も嘆かわしいのは、神の名がその口実に使われたことである。宗教的な慣習やルールは社会に深く根ざすものなので、法的に禁止する力はなくても、精神的な影響を与える場合があるからだ。
 事実上取り決め婚が見られない、君たちの今の時代、現在の社会にあっても、まだ愛のない結びつきが沢山あることを知っておきなさい。しかも、愛の欠如に気づき離婚したいと思った人がいても、先ほど話したような宗教的な慣習のせいで、それがとても困難なのだ。