2015年2月2日月曜日

18 愛の法則から見た隣人愛

*妬みはどのように乗り越えますか?

 初めに、自分が妬んでいることを認めること。自尊心のある者は、虚栄心のある者よりもエゴ的感情をよく理解しているので、妬んでいることを自覚できる。
 残念ながら、妬みは、君たちの世界で頻繁に見られるエゴ的感情である。しかも、大多数の者は妬んでいることを認めたがらないので、停滞してしまうのだ。自己の悪癖を認識しない者は、それを修正することができないのである。
 妬みを克服するには、他の人たち以上になりたいという願望を放棄する必要がある。他者の持ち物を所有したいという欲望を放棄し、幸福になれるかは自身の資質と感情とを覚醒できるか次第で決まるので、人から何も奪う必要はないと気づくことだ。
 邪心や妬みも、大なり小なり他者を拒絶すること―毛嫌い、嫌悪、恨み、憎悪に至る―であり、隣人愛とは正反対の一番邪悪なエゴ的感情を培養するので、幸せになる代わりに不幸の主原因である心の病気になりやすい。望むものを手に入れるのが不可能だと、憤り、無力感、悲しみが生まれる。

*では、どうやって邪心を克服するのですか?
 これは理解や自覚によって解決するのが難しいエゴである。邪心を患う者は、自分が痛手を与えていることを完全に自覚しながら行動しているからだ。邪心のある者は、苦悩を生み出すことに執念を燃やしている。他者にしたことを自分が身を持って苦しんでみるまでは、改悛の情を持ち始めることがない。
 こうして気弱で無防備な状態になった時に、かつて自分が犠牲にした人たちから利他・無条件の愛の行為を受けると、思考回路が覆り、決定的な変化を遂げさせる一打となる。常に計算づくで動くことに慣れているので、自分がこっぴどく痛めつけた人たちが復讐のチャンスがありながら、赦してくれて手を差し伸べてくれるのが理解できないのである。
 彼らの邪心が溶解して、過去の自分の犠牲者たちへの揺らぎない忠誠心に取って替わるのは、この時である。彼らが恩赦にも救済にも値しないと知っていたにもかかわらず、赦してくれて、助けを求めた時に救ってくれたからである。

*今度は野心について話してください。
 
 野心とは、所有または支配したいという強力な願望である。
 野心の対象が物的な形態であれば、強欲や貪欲の形で顕れる。つまり強欲や貪欲は、実際には野心の変種なのである。
 領土や人に対する権力欲や支配欲も、野心の別の異形である。
 野心家は、何でも人の上位に立つことを狙い、誰にも主導権を握られたくないので、嫉妬深い人でもある場合が多い。
 野心家は、手に入れていくもので絶対に満足せず、飽くことなき所有欲を益々募らせていく。目標としたものを獲得するにつれて、幸せになれると思っているが、目指すものを得るとそれで納得せずに、常にそれ以上のものを欲しがる。そうして、もっと過度で獲得困難な目標物を探し出す。

*でも、世界平和や飢餓の撲滅など崇高な目的を野望に抱く人たちもいますが、正しい行為ではないのでしょうか?
 
 それらは野心ではなく、大望である。野心と大望という言葉のここでの意味づけの違いは、野心は崇高な概念に基づかないとしていることだ。
 野心家は、利己的な考えで動き、行動する際に良心の咎めを感じにくい。自分の持っているものでは決して満足せずに、所有したい、支配したいという熱意は留まることがない。つまり、野心は飽くことを知らず、過度になっていく。野心家は倫理的・道徳的な紀律を全く尊重せず、目的は手段を正当化すると考えているので、自由意志を大切にできない。そのため、往々にして自分の見解を人に押しつけ、失敗を認めたがらない。
 見込みが外れると激怒し、目的を達するために、さらに攻撃的で有害な手段に訴える。つまり、自分の欲しいものを正当に手に入れられなければ、不当な手段で獲得するのだ。だから、他の人たちに損害を与えずに野心を満たすことは難しいのである。

*野心はどう克服しますか?
 
 所有したいとか支配したいというような強力な願望では幸せになれるどころか、自分自身に動揺と不安を生み、他者にあらゆる苦悩を与えると気づくことだ。行き過ぎた野心は、極度に有害なエゴが現れ出たものである。過度の野心に支配された人は、人類に最大の弊害と苦悩とをもたらすが、同時に、自分自身でも大きなカルマの負債を負う。
 人類の最大の犯罪者は、この物質界の所有者になろうとして、思いのままに政治や国際金融の糸を操ってきた権力者たちである。世界支配を渇望し、自分たちの富と権力を増やせるのであれば、何百万という人たちに苦悩や死を引き起こす決定にも躊躇しない。だが彼らは、自分たちが生み出した苦悩が全部、霊的次元に戻った際に、自らの身に降り注いでくることに気づいていない。
 一生懸命獲得したものは全部、一切合財、物質界を去る時に失うことになり、霊界に移った時に待っているものは、カルマの巨大な債務である。そして、他の人びとに与えたあらゆる苦しみを、自分の身を持って味わうことから返済していくのだ。彼らの魂は犯した罪を全部修復し終えるまで苦しみ続けるが、それには大変長い時間がかかるので永遠に思えるほどである。

*次は偽善について話してください。

 偽善は、それ自体がエゴ的感情というより、虚栄心の顕れである。それは、いいイメージを与えようとして、実際には違うもののふりをすることだ。偽善者は霊的な進化を望んではおらず、褒め称えられたいために、そう装っているに過ぎない。自己変革をしようとせず、世間体を繕っているだけなのだ。それゆえ偽善は、霊的進化の大敵である。自己のエゴの改善や排除の努力をせずに、エゴを隠して、偽りの慈善のイメージを人に与えるからだ。狡猾に行動して、他者のためになる本当に善良な人だと思われようとするが、実際には自分自身のエゴを満たすために行動する人たちである。
 偽善的な態度は、政治においてよく見られる。特に選挙の時期にはそれが顕著で、候補者は誰もが投票してもらおうとイメージ作りに熱心で、市民の状況を改善しようと望んでいるふりをする。だがひと度権力に就くや、自分自身や恩がある者への利益を優遇する。
 これは政治に限ったことではない。あらゆる分野で、本来の自分とは異なった顔をして、他者を利用する傾向にある。他者を愛するふりをしながら、その外見的な善意の陰に、人から認められたいとか、名声・富・権力への願望など、利己的な目的を隠している人が大勢いるので、偽善は人類愛の大敵である。

*本当に善意で行動している人と、ただそう見せかけたい人とをどう区別したらいいですか?
 
 善意の人は正直に利他の精神で行動し、言うことと行うことが一致している。偽善者はふりをしているだけで、言ったことと全く別のことを行うなど、常に矛盾している。これで違いは明らかだ。
 たとえば、謙虚だと自慢しがちであるが、本当に慎み深い者は、他者のために良いことを行っても自慢したりしない。それを行うだけで充足できるからである。だが偽善者は、何らかの見返りを貰えない限り、誰のためにも何もしない。偽善者はいつかはミスを犯し、その利己的な目論見が露になる。その時に、化けの皮が剥がれてしまうのだ。

*偽善を乗り越えるためには何をしたらいいですか?
 
 最初にそれがあることを認め、打ち克つ努力をしなければならない。また、生涯にわたって芝居を続けるのは疲弊することで、虚しさを生み、それゆえ不幸になると気づくことだ。霊界では自分を偽ることは不可能で、人は見せかけたいと思うようにではなく、それぞれがあるがままに見られるので、霊的な視点からも無駄で無益な努力である。
 偽善は他の人たち以上になりたいという願望から生じるので、虚栄心と主役になりたがる傾向との関係が深い。その願望を手放せれば、偽善を克服できるかもしれない。

*次は、主役になりたがる傾向についてお話いただけますか。
 
 主役になりたがる傾向については前にも話したので、ここではあまり取り扱わないことにしたい。繰り返しになるからだ。
 要約すると、主役になりたがる傾向は、注目の的になって注意を引き付けたいという願望である。これは虚栄心の段階で一番強く見られるもので、名声や成功、他者からの称賛や賛辞への願望となって表れる。
 この傾向は自尊心と自負心の段階でも表れるが、その場合は、愛情不足や愛されたいという願望が原因であることが多い。自尊心や自負心のレベルにいる人たちが自己顕示欲が強いと、傲慢になる。傲慢な人は、他の人たちに勝っていると感じていて、優越的、高圧的に行動する。

*人から好かれたいと思うのは別に悪いことに思えませんが。
 
 好かれたいのも悪いことではないが、それが正しいやり方ではないのだ。何かの見返りを期待して行動する人は、それが得られらないと失望したり怒ったりするので、他者のためだったのではなく、利益のためであったとわかる。本当に愛する者は、人から認められる必要もなく、人のために行動するだけで満たされる。
 それに、私たちを好きになるかを決めるのは我々ではなく、相手の意志次第であることに思い至らなければならない。相手にしてしてあげたことへの感謝の意として、私たちに対する好意を要求することは、その人の自由意志を侵すことになる。

*主役になりたがる傾向と傲慢とは、どう克服すべきですか?

 謙虚になる練習をすることだ。

*では謙虚さとは正確には何でしょうか? 定義できますか?
 
 謙虚さとは完全に正直に包み隠さず率直に行動でき、自己の美徳を自慢せずに自分の欠点と過ちとを認められる人に特有の、霊的資質であると定義できる。霊的に人の役に立つためには、謙虚さという資質を伸ばすことが欠かせない。謙虚でなければ、自画自賛や自己崇拝に陥ったり、自惚れたり傲慢になってしまう。

*謙虚さに欠けると、どうして自画自賛や自惚れ、傲慢になるのですか。
 

 他者の支援に関心のある人がどんどん皆の注意を引き付けていっても、当人が謙虚でなければ、きっと自分自身に陶酔して失敗することだろう。大勢の人びとの注目の的であると感じれば、必ず主役になりたいと思う気持ちが暴走する。自己のエゴをよく内省してみなければ、他の人よりもすごく、勝っていると思い込んでしまうのだ。
 この時、何よりもこの人の動機となっているのは、もっともっと沢山の人たちからの注目・称賛・賛辞を獲得したいということだ。もっとも良識的なやり方で大変巧妙にやれば、霊的な内面を把握する能力の大きい魂にしか最初は気づかれないかもしれないが。
 また、より高い霊的な素質を示す人たちを自分のファンを奪うライバルだと見なして、その人たちへの妬みが芽生えることもある。比較されることによって当人の欠点が歴然とする場合は、狡猾かつ悪意を持ったやり方で、その人たちを卑下しようとする。
 往々にして、自分の直属の特権的なポストに、充分な能力はないものの言うことはよく聞く従順な部下を配置する。こうなると、人の役に立ちたいという動機は二次的になり、より多くの信奉者を獲得する抗弁として使われるだけとなる。
 こういうことが起こるのは、謙虚さを育まなかったからである。つまり、完全に正直に包み隠さず率直に行動せずに、欠点(主役になりたがる傾向、傲慢と妬み)を認めることもなく、自分の徳だと思っていることを自慢するからである。

*そういう見方をするなら、隣人愛や人助けは不可能に思えます。主役欲に囚われることなく求められる謙虚な状態に達するのは、非常に難しいです。一体、エゴの罠に陥ることなく、隣人を愛したり、人を助けることができるのでしょうか?
 
 もちろんできるとも。心からそう望み、自分自身のエゴを見張って、エゴが顕れた時に気づいて、意思を支配されないように頑張るなら可能となる。
 自惚れたり思い上がったりせずに自分自身の能力をわきまえて、それ以上のことをしようと望まないことだ。人助けをしようとする場合に、皆より目立ちたいというのが目的であってはならない。また、他の人たちが行っていることと競い合っても比較してもならない。単にそれが誰かの役に立つかもしれないことだけで、満足して行動すべきである。これが、無条件の愛に向けて確実かつ安全に歩を進める秘訣である。