2015年2月9日月曜日

22 愛の法則から見た十戒 4

*そうですね、では十戒の二つ目を見てみましょう。「神の名をみだりに唱えてはならない」ということですが、これについて教えてください。

 これは申命記にも記載されているが、訳に誤りがある。ヘブライ語を逐語訳すると、「神の名を、欺くために使ってはならない」となる。つまりこの掟の問題は、戒律自体が間違っていることではなく、その意味の解釈の仕方にあり、そうなったのは、もともとのヘブライ語の翻訳を改変してしまったためである。このことは前にも話したかもしれないが、とても重要なことなので、ここでも掘り下げて見てみることとする。
 多くの人は、「神の名をみだりに唱えてはならない」ということは、世間で一般的に使われる下品な表現の中で、神の名を用いてはいけないことだと思っている。そして、誰かがそのような表現を口にするのを聞くと、発言者でさえ文字通りの意味で言っていないことを考えてみようともせず、神への冒涜だとして腹を立てる。しかし実際には、そのような言い回しは通俗的で粗野であるかもしれないが、無害なもので、霊的には何の問題ともならない。
 しかしながら、この戒律が真に意味するところは、「神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない」である。人類はこれまでにもこの掟を平然と破ってきたし、今も破り続けている。
 最もひどい残虐行為も神の名において行われてきた。その中には、聖なるものへの儀式に人間を生贄に捧げることから、異教徒の殺戮、宗教戦争や十字軍、改宗の強要、異端者の迫害・拷問・殺害などや、宗教権威のエリート層を肥やすための搾取、信徒を操るための教義の改ざん、人びとの間に不和や争いを生み出すことまでが含まれている。このようなことすべてに、大変有害な利己的な意図があるのだが、人間が神の名のもとに犯したのである。これは本当に由々しきことで、霊的には致命的な結果をもたらす。本当は自分たちのエゴのせいなのに、神がそのようなことを命じたと皆に信じ込ませるのはペテンである。
 聖典でさえも改変し、神がイスラエルの民に他民族の殺戮を命じたと信じさせようとするのは許しがたい。また、神、あるいは神の遣いとされるモーゼが災いを招いて、兄弟であるエジプト人を殺し、イスラエルの民をエジプトから解放するようファラオに迫ったとすることも看過できない。もし、それが本当であるなら、神とモーゼは、そこら辺の人殺しや暗殺者、人類の殺戮者などと同じように残酷で、命を粗末にするのだと認めないわけにいかなくなる。

*話が逸れてしまいますが、モーゼやファラオのお話で好奇心が刺激されてしまいました。実際はそうでなかったのなら、本当に起きたことは何だったのでしょう? エジプトの災いについては、宗教でも絶対に確かなこととされていますが。
 
 当時は二人の関係が良かったので、イスラエルの民を解放してもらえるように、モーゼがファラオを説得したのだ。

*では、ヘブライ人(古代イスラエル人・ユダヤ人の別称)たちは、彼らを殺そうとするフォラオの軍に追われなかったのですか?
 
 追われたのだが、それはファラオとその軍によってではなく、ファラオの決定に不満を持ったエジプトの支配層による。彼らが出発することを知ると、追っ手の傭兵隊を組織した。ファラオに歯向かうことを避けて、エジプトの手の届かないところで捕らえようとしたのだ。

*それで、何が起きたのですか? 聖書には、モーゼが聖なる力を借りて紅海の水を断ち割り、ヘブライ人が渡れるようにした後、エジプト兵に水が押し寄せたので、彼らは溺れ死んでしまったとありますが。
 
 実際に起こったことは違うのだ。まず、モーゼが水を断ち割ったというのは本当ではない。モーゼが考えたルートは、通常水に覆われている地域を通らなければならなかったが、時折、気候と潮の状況により、場所によっては渡れるほどの水準にまで、一時的に水が引くことがあった。モーゼの顧問役たちはこのことを知っており、彼にそれが起きる日時を教えたので、単に、潮が引く頃まで待って出発したのだ。ファラオに仕えている者たちも、通り道に当たる地域を整えてくれていた。2~3日遅れてそこに追っ手が到着した時には、もう潮が満ち始めていた。中に入って行けば海に飲まれてしまうことは明らかであったから、常識があれば渡ろうとはしなかった筈だ。だがそうしてしまい、渡っている途中で水かさが増して、溺れ死んでしまったということだ。
 これでわかっただろうが、実際には、何も超自然的なことは起きていない。信じられているように、神の怒りに触れて死んだわけではない。死んでしまったのは、彼ら自身の憤りのせいだ。ヘブライ人に追いついて殺したいという欲求の方が、自分たちの命を守ろうとする良識よりも勝っていたということだ。

*それでは聖書には、なぜ別の話が書いてあるのでしょう?
 
 利己的な関心のためなら、すべてが歪曲されてしまうと言っただろう。当時は聖なる書物というものは、司祭職しか手にすることができなかったのだ。だから、実際に体験した人たちが死んでしまうと、自分たちに有利になるように事実を変えてしまうことは割と簡単だった。
 どの宗教でも同じだが、ユダヤ教の支配者たちは、人民に神の存在を怖れさせて従順にさせることで、彼らの権威に逆らわないようにしておきたかった。そのために、裁きの神と執行者モーゼ、というイメージを創り上げたのだ。ひと度そのような神話を作りあげれば、人民を意に従わせようとする場合は、神の言葉をモーゼが代弁していると言いさえすれば、人びとを震え上がらせ、怖れから言いなりにさせることができたからだ。

*なんてことでしょう! その時代の歴史に、本当に起きたことをもっと知りたいです。人類の宗教観に多大な影響を与えてきたことですから。
 
 それは、我々が見ている大事なテーマから外れてしまうので、今は不適切だ。君に話したことを、人間がどういうものであるかを示す一例としてほしい。自分の一時のエゴを満たすためになら、何でも改ざんしてしまうのだ。霊的な教えもしかり、また、捏造された間違いだらけの神や使者の概念さえも伝えようとするのだ。

*第二の戒律(神の名をみだりに唱えてはならない)に最も違反したのは、特に過去の時代における宗教権威者だったようですね。
 
 過去の宗教権威者だけでなく現在の宗教権威者もだ。現在はより巧妙に行われているとはいえ、まだ神の名が利己的な目的のために使われている。霊的には偽りで、人間の魂の進歩を妨げる宗教上のドグマを正当化するために、未だに神の名が用いられる。高位聖職者たちは、その地位がもたらす権力を利用して、ありとあらゆる搾取や犯罪を犯し続けている。今では多くのことが秘密裡に行われているが、それは首謀者が明るみに出ると、法廷に引き出されるからだ。
 政治権力者たちも、都合のいい時には宗教を利用して、利己的で侵略的な目論みを市民に納得させようとする。たとえば、市民を戦争に送り込みたい場合などには、犠牲を要請しているのは神であると言いくるめ、神が味方についているから、戦闘中も守ってもらえると思い込ませる。
 だが、一番の影響力を持っていた宗教や政治の権力者たちが最も有害だったとはいえ、この戒律を破っているのは、彼らだけではない。個人的なレベルにおいても、見せかけの正統宗教や霊性の下に人間の自由や意志を制約したり、私欲に基づいて他の人たちをコントロールしたり操作するなど、偽善的で利己的な行動は、この掟に背くものである。
 同様に、自己の利益のために、人の宗教及び霊的信心を利用する者も、この戒律を破っている。したがって、「神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない」ということを我々が正しく応用するのなら、「霊性で商売をしてはならない」ということに繫がるという結論に至る。つまり、霊性を商売にして儲けようとする人も、この戒に背いていることになるのだ。

*「霊性で商売をする」とは、具体的に何を意味するのですか?
 
 霊性とは、魂が存在するだけで元来生まれ持つ特性である。進化を促す力となり導き手となるために、霊界から個々の魂に授けられた資質であり、天賦の才なのだ。
 したがって、霊性というものは、特定の人に属するものではなく、皆が平等に有するものだ。我々には無償で与えられているのであるから、それを使用する時には無料とせねばならない。それゆえ、霊性を金儲けのために使ってはならない。そうするのなら、それは、誰かが空気を私物化して、呼吸をする権利と引き換えに、人からお金を取るようなものだ。我々の持つ霊的な能力と知識を、思考に忍び込むエゴに占有させてしまえば、無私の志ですべき他者や自己の進化に役立つ霊的な仕事も、利潤や儲けを引き出す物的な商売に変わってしまう。
 様々な霊媒能力も、すべて霊界から授かった才能なので、どれも商売の対象としてはならない。この中には、エネルギーの伝授も含まれるが、お金と引き換えに霊界からの助言や交信を受け取るのもダメである。霊媒能力は、我々の進化を助けるために与えられたのであり、取引のための商品ではない。霊的な才能の使い方を誤れば、霊的な援助が貰えなくなろう。高次の霊たちは、私欲を肥やすことに協力的でないのだ。

*でも、「お金持ちになりたいのではなく、霊性に天職を見出したのでそれに従事したいと思っている。他の仕事をする時間がないけれど、何かで暮らさないといけないので、スピリチュアルなことでお金を取る必要があるんだよ」と言う人がいますが、これについてはどうですか?
 
 誰から、物質界での仕事を免除されていると言われたのかね? 我々は全員、霊的な進化と関係があるのだから、「霊的なこと」に従事するために皆が仕事を辞める決意をしたとしたら、この世界は何で生きていくのだろうか? 
 現在、多くの人たちが、スピリチュアルな変化を遂げるということは、世俗的な仕事を辞めて、彼らが霊的な仕事と呼ぶことに専従することだと思い込んでいる。そして、世俗的な仕事からの収入がなくなるので、霊的な知識を伝えたり助言を与えたりして、お金を貰っても構わないと正当化しているが、そうではない。
 霊的な成長は、物質界の仕事と完全に両立させることができる。しかも、病気、老体、肉体的または精神的に不適合な場合を除いて、誰もそれを免除されることなどない。肉体を持って生まれた者の生きる上での義務-たとえば仕事だ―を回避する口実として、霊性を持ち出してはいけない。なぜなら、すでに霊的な仕事をしているからと言い訳をして働かない者は、楽をしようとする怠け者であり、霊的に進化はしない。誰もが生計を立てるために働かねばならず、皆がそれにふさわしい対価を受け取らねばならない。霊的なことを物質界の職業にすることは、正当化できない。