2015年2月11日水曜日

24 愛の法則から見た十戒 6

*それでは、(教会などで)人のために募金集めをするのもいけませんか?

 困っている人のために助けを請うのは、悪いことどころか、その反対だ。貧困者を支援するという善い目的のためにお金が使われるのであれば、それは霊的に気高い行為である。
 正しくないのは、仕事をしないで済むように、自分のためにお金を貰おうとすることだ。無意味なことや利己的な目的で、お金をせがむのも正当化できない。そして、それに輪をかけて不当なのは、公正なことを口実としながら、後で利己的な目的にそのお金を使ってしまうことだ。貧困者を救済するために集金しておきながら、それを株に投資してしまうというようなやり方が、これに当たる。

*でも普通は、募金集めをする人は、立派な志でやっていると思っている筈ですよ。ある人にとっては気高い目的でも、別の人にとっては無意味なことがありますが、それをどうやって見分けるのでしょうか? たとえば、信仰の場の建設老朽化した教会の修復を崇高なことだと思う人がいても、他の人たちには意味がなかったりします。
 
 崇高な趣旨とは、必要としている者を助けることである。社会格差や理不尽な物事を一掃するのに役に立たず、貧困者のためにならないものには、利己的な意図がある。
 各人が良心を見つめ、人のために募金集めをしてあげる時の自分の動機が何であるのかを内省してみるがよい。そうすれば、自分をつき動かしているものエゴ的な思いなのかがわかる。他人は欺けても、自分の良心を騙すことはできないからだ。
 カトリック教会は大金持ちであるので、聖堂の改修や新しい教会の建立のために資金を集める必要などない。もっとも、他の人たちに彼らの棲み家の請求書を払わせることができれば、大満足であろうが。

*他にしてはならないことはありますか?
 前に言ったことだよ。霊性を職業にしてはならないということ、つまり、スピリチュアルに関係する活動をして生計を立てようと思ってはならない、ということだ。霊的なことでお金を稼ぐ者は、霊性の助言役としての資格を失い、霊性の商人と成り果てるのだ。
 また、財産や経済的な利益を手に入れるためや、人より有利になるためや優遇されるために、霊性を使うべきではない。そうすれば、組織の資金で維持される、宗教的な職業(僧職)階層ができてしまうこともない。そのようなものは、教会の信仰や儀式をしきり、組織を維持する方策として加入者を勧誘すること以外に、何の役目も果たしていない。
 私の話は、今日のピラミッド型の不公平な会社構図を例にとれば、理解しやすくなるだろう。

*宗教への勧誘が悪いことのようにお話されていますが、矛盾が出てきてしまいました。霊性の知識を自分の人生に役立てられて、それを他の人たちにも教えてあげたいと願うことが、いけない行為なのでしょうか?
 先ほどの勧誘とは、相手の自由意志を尊重せずに、何かを説得したり納得させようとすることを指している。私が問題にしているのは、力づくで信徒を獲得したり、操作や強制をしたりする者たちのことだ。あるいは、特定の信仰に加味することを条件に人を助けたり、全く関心のない者を説得したり、自分の概念や信念を押しつけようとする者たちのことである。このようなことはすべて、相手の自由意志を強要することになる。
 他者を愛するということは、相手が必要としていることを助けてあげるということで、その見返りとして、自分の考えや信仰を共有してもらうことを期待してはならない。霊的な知識を広めようとすることは、悪いことではない。その反対それは善いことで、人が成長し幸せになるために求められることでもある。だが、それを相手の意志に反して行ってはならないのだ。要するに、自分が真実を知っていると信じていても、人に強要してしまえば間違いを犯していることになる。
 したがって、自分自身の信念を相手にも信じさせようと躍起になって、無理強いしたりプレッシャーをかけたりしてはならない。誰にも絶対に、自分の信仰を押しつけてはならない。そうではなく、それを自分自身に適用して、愛の感情を発達させてエゴを一掃することで、もっと幸福になるのだ。自分が実際に手本となって示してあげることが、他の人たちにとっては、一番の学びとなるのだ。

*では、スピリチュアルな援助を求めて人が来る時は、どのような態度で接するべきでしょうか?
 人を助ける時には、自分の信念を受け容れてもらうことや共有してもらうことを引き換え条件としてはならない。心を開いて、彼らが興味を持つことに応じて、分かち合うべきである。様々な意見が出るのを認め、自分と違う視点を尊重すべきだ。そして、他の人の視点がより的を得たものであれば、聞く耳を持ち、自分自身のものの見方さえ変えようとしてみるべきだ。
 感情的な問題を解決してくれるように頼まれた時は、自分の意見を言う前に、「君の心はどうしたいの?」とその人に質問してみてごらん。我々は思考と感情とを混同してしまうことが多いが、心の声ほど適切我々を導いてくれるものはないからだ。頭に介入するのはエゴなので、そう尋ねることで、心で思うことと頭で考えることとの区別がつくように手助けしてあげられるのだ。考えが整理できるように、君たちの意見や体験談を話すのはいいが、当人に代わって決断を下したりせずに、それぞれの人生にふさわしいことを自らの価値判断で決めさせてあげなさい。
 求められる援助の内容と程度は、人によりけりだ。各人のレベルに合わせて、必要とされ、受け取る気があることだけを与えるまでだ。それと同様に、君たちの能力が及ぶことまでに限られる。君たち自身に、その人の手助けができる準備が整っているかを見てみるのだ。自分がまだ力不足に思えれば、それを認めて、その用意がある人に助けてもられるように適役を探しなさい。悪気がなくても、知らないことを助言してしまえば、その人を助ける代わりに混乱させてしまうからだ。
 また助けが必要な人がいても、それを欲しがらなければ、当人の意志を尊重して、アドバイスはしても押しつけないことだ。このような場合には、その人が気を変えるかを、ただ見守るだけしかできない。要は、その人が中に入ってこなくても戸は閉ざさずに、考えを変えた時一度は断った助けを頼む勇気が出るように、半開きにしておくのだ。


*他につけ加える大事なことがありますか?

 ああ、自分の信念は権威ある者の価値観で決めずに、自分自身を拠り所としなさい。私が言いたいのは、あの人が言うことだからと特定の人の言葉を重視しないで、伝えられるメッセージの質で判断して、自分自身の価値基準で、それを排除するのか受容するのかを決めなさい、ということだ。そうすれば、真の霊的な教えが、身分の低い人のものであるために過小評価されることもなければ、利己的な内容が、著名人のものであるために持てはやされることもない。
 宗教上の権限は、実のところ、権威者の裁断が正しいものだと信者に思い込ませたこと、つまり、地位が上の者の言うことは下位の者の意見よりも価値があると思わせたことによる。最高司祭だとか大司教だとか呼ばれる法王の言葉は、絶対なる真実となり、霊性に関してはそれ以上の権威を持つ者がいないので、議論の余地もないのである。
 このようにし宗教の権威者たちは、彼らの利益にはなるが人間の霊的進化を阻む、利己的な信念を良しとすることに成功した。一方で、霊的には本物であっても、彼らの利得を損なう概念は非難や中傷をされ、葬られてきたのだ。

まだ他に、してはならないことがありますか?
 そうだね、他者のために行うことで、人から認められたいとか、有名になりたいとか、賞賛されたいなどと思わないことだ。そうなれば愛ではなく、自分の虚栄心を肥やすだけだからだ。

*では、第三の戒律に移りましょう。これは、「祝日を聖なるものとせよ」でした。
 この戒律もまた、改変されてしまっている。申命記の文中では、「土曜日を心に留め、これを聖なる日とせよ。六日間は働いて、すべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」となっていた。
 この戒律の意義は、権力者の搾取に対して労働者の権利を認め、その代償に報いるための休日を与えるものであった。当時は奴隷制が頻繁に見られる時代で、支配者は、自由人であろうと奴隷であろうと、働き手に休みを与えずに搾り取る傾向にあった。それゆえ、従僕や荷積みの動物までを含めた全員に、休む権利があると明記する必要があった。それは、すべての搾取に歯止めをかけようとするものだったのだ。つまり、「少なくとも週に一日は休日として、仕事を休むためにとっておきなさい」と言おうとしていた。
 教会もまた、この戒律を自分たちの都合のいいように改変するのに、ささやかながら手を貸した。初めは休日を尊重するものだったのに、彼らの都合に合わせて、イエスや聖母や聖人たちを祭る儀式を重視するものに変えてしまったのだ。
 つまり、これも、コンスタンティヌス帝以前のローマ帝国の風習を模倣したものであったのだ。聖ヨセフの祝日や聖ヨハネの祝日といった聖人のお祭りクリスマスでさえ、それぞれが春分の日、夏至、冬至と重なっているが、それは、以前の異教の祭日をキリスト教のお祝いに再編したからなのだ。

*第四番目の戒律である「あなたの父と母を敬え」を見てみたいと思いますが、これについてはどういうご意見ですか?
 これは、老人を保護するのが目的だった。その時代の社会制度には、高齢者を守るための社会保障制度も、年金もなかったのだよ。当時の統治機関は、困窮者や弱者を守ることなど一切しなかったし、老人を保護しようともしなかった。したがって、老人たちに残された唯一の選択肢は、家族、つま子どもたちに頼ることであった。子どもたちは大人になると、もう自分たちではやっていけなくなった年寄りを扶養したのだ。
 しかし、この戒律その意味合いにおいて、やはり改ざんされている。というのは、両親を敬い世話をするといった肯定的なことを、親の意に従うのが子どもの義務であることにしてしまったのだ。この掟を盾に取り、子どもたちに対する所有権を得た親の多くは、心おきなく横暴に振舞い、彼らを隷属させた。虐待や侮辱、操縦によって、ほんのいたいけな幼少期から子どもたちの自由意志を侵害して、勝手に結婚相手を決めて不幸な人生に縛り付けるなど、彼らの意を曲げ、その人生をコントロールしたり支配したのだ。しかも、それが神聖なる権利だと思い込んでいた。
 よって、宗教色が濃い社会においては、親は子の人生に関して、より一層支配的になっていった。だから子どもが大人になって、しがらみを断ち切るほど強くなると、親のことなど知りたくもないという事態になる場合が多いのも、驚くに値しない。
 その時になると、親たちは「こんなにも色々尽くしてあげたのに、なんて仕打ちだ」と言いながら、子どもらに見捨てられたと嘆くのだが、実際には、自分の蒔いた悪い種を取り入れているに過ぎない。
 それゆえ私は、「父や母を敬う」だけでなく、人を理解尊敬して慈しむ心は、家族すべてに、つまり、祖父母や、父母や、兄弟や子どもや孫たちにまでも行き渡らねばならないと言うのだ。その中でも特に子どもたちは一番弱い存在なので、大事にしてあげなければいけない。
 小さな子どもたちは、最も傷つきやすく無防備な存在なので、より一層の理解と愛情と尊敬をもって、扱ってあげなければならない。子どもは絶対にたたいたり、辱めてはならない。以前にも子どもに対する愛情については取り上げたと思うが、それはとても大切なことだからだ。
 したがって、この戒律に関しては、次のようにより広範な意味で解釈することだ。君たちの人生を取り巻くすべての人たち、特に最も傷つきやすい者である子どもたちに対して、慈愛、尊重、理解を示しなさい。