2015年2月13日金曜日

25 愛の法則から見た十戒 7

*今度は、五番目の戒律である「汝、殺すなかれ」について話しましょう。

 これは、議論の余地がないほど明確だ。この掟は、霊的な世界から授かった時のままの形で保たれてきた。それゆえ、他の解釈はあり得ない。
 「殺すなかれ」は殺すなかれであり、命を奪ってはならないということだ。
 知っての通り、魂は不死なので、幸いなことに人間が何をしようとも、その不死性を絶やすことはできず、せいぜい肉体の生を中断させることができるだけだ。だが、肉体での生命は、霊界が魂に授けてくれる贈り物の一つである。肉体を持って生きている期間は、霊的な世界で魂が学んだことを実践してみせる場であり、身体の維持に空気が必要となるように、魂にとっては欠かせないものだ。そのため生き物には、自己の存在を認識できる前から、自分や同族の命を保つプログラムとなる、生存本能というものがある。
 命を奪うことは、その人の進化のチャンスを絶ってしまうことであり、霊的視点からは極めて否定的なことだ。それゆえ、この戒律のように簡潔だが基本的なルールを守れない限り、地球人類が心待ちにする、進化の飛躍を遂げる準備が整ったとは見なせない。


*世界のどこを見回しても、殺人を咎めない刑法というのはあり得ないと思いますけど。

 それはそうだが、人間は、死の中でも分け隔てをしているようだ。ある命は他の命よりも重要度が高いらしく、多くの場合において、殺人を合法化している。

*それは、どういう意味ですか?
 
 平和時にある男が何人もの人を殺すと、連続殺人者ということになり、必ず裁判で有罪とされるだろう。だが、同じ男が戦時に敵側の人たちを殺すと、戦争の英雄となり、政府から勲章を貰うだろう。しかし、この男が敵兵を殺したくないがために軍を離反するとすると、お上に捕らえられて、反逆者の罪を着せられ、処刑にされるかもしれない。
 ある指導者が、自国の軍隊に敵国を爆弾で攻撃することを命じたとして、それで何千人もの人が死んだとしても、それは職務を遂行したということになり、死者が軍人であれば「損失」と呼ばれ、市民であれば「付随的損害」と呼ばれる。そして、その国が戦争に勝てば、その指導者は英雄として記憶され、歴史でも名誉ある記録をされて、街路や学校の名前は、彼の名を戴くことになる。
 また世界の多くの国々には、刑法の中に死刑があり、罪次第では「正義を行う」ためにそれが執り行われている。
 以上の結論を言うと、君たちは「殺すなかれ」という戒律を、不当な契約書の末尾に小さい文字で書かれた「殺すに値しない者を殺すなかれ。しかし殺すに値する者を殺せば、じょうできだ。」という補足と共に、適用していることになる。そうしておけば、殺されても当然だったという口実を後から探しさえすれば、済むからだ。人殺しをしたりそれを命じる者は皆、そうしてもいい動機があると思い込んでいるものだ。

*戦争については、どうお考えですか?
 戦争と呼ばれる集団的な殺人や殺戮は、霊的な視点から見れば、最も重い罪の一つである。無数の命が奪われるという理由だけでなく、生き残る者に与える破壊と苦悩には、計り知れないものがある。それゆえ、戦争を煽ってはならないことも、非常に大切な霊的な助言であると伝えておこう。戦争の最高責任者たちは、彼らが与えた損害をすべて修復するまでは、永く辛い償いを耐えねばならない。

*でも、たいていの場合、戦争に赴く人は自分がひどいことをしているとは気づかずに、祖国のためとか、自分たちのイデオロギーや宗教的な信仰を守るためなど、いいことをしていると信じ切っていますよ。
 
 それは自分を欺いているか、騙されているのだ。殺人を正当化し得るほどの理念や信仰や祖国など、何一つないからだ。
 したがって、「聖戦」というものは存在しない。そんなものは、人間が作り出したものであり、富や権力への野望を正当化するために神を利用して、狂信によって、他の人たちに仲間を殺しをさせようとするものだ。
 ゆえに、戦争を先導してはならず、戦争に参加してもならない。それを正当化できるものは、何一つとしてないのである。


*死罪についてのご意見も聞いておきたいのですが、死刑は、世界の多くの国で、重い罪を裁く妥当な方法とだと考えられています。

 死刑は、どんな事情があるにせよ、またいかなる理由があろうとも、霊的な観点からは恥ずべきもので、残虐で恐ろしく、身の毛のよだつ、おぞましいものである。
 あろうことか、最も宗教心があり神の信徒だと自認する国々が、犯罪者への罰として死刑を適用するのに一番熱心である。それを我々が、どれほど深く嘆きながら見ていることか。
 裁きの代理人たちが、法に背いた者に死刑を課して、罪人と同じレベルになるならば、どの点で殺人者よりも優れていると言えるのだろうか?
 より残酷な国家では、軽犯罪に対しても死刑が適用される。中には、霊的に見れば罪に値しないものまでが含まれる。たとえば、そこでは愛してもいない男性との結婚を強いられる女性が大多数なのに、夫に不実であると処刑されてしまう。
 一神教を奉じる三大宗教、つまり多数の国の何十億人もの信者が、この「殺すなかれ」が織り込まれた十戒を聖なるものとしている。しかし実際には、どれほどの人たちがこの掟を尊重しているだろうか? 最も信心深いと言っている者が、この掟を一番守っていないように見えるではないか。
 よくあることだが、自分の宗教の儀式や規則をすべて守り、従わない人がいると目くじらを立てる、熱心な信者を自認する者が、実は最も感性に欠け、情け容赦がないのだ。そういう者は、人の生命や苦悩には全くお構いなく、死刑を擁護したり、自国の子どもを軍役に就かせて戦争によって他国の兄弟たちを殺すように煽るのだが、自分たちが神に祝福されていると強く確信している。
 神の真の信奉徒でありたい者は、正義の行為に見せかけたこのおぞましい犯罪に、真っ向から反対せねばならない。死刑が正当であると思わせているのは神ではなく、自身のエゴを神の似姿に仕立てあげたい者どもの狂信によって支えられていると知るべきだ。

*人殺しをしたり、誰かや大勢の死に対して責任のある人が死んだ後は、どういう運命が待ち受けるのでしょうか?

 通常、一部の霊たちの間で「奈落」と呼ばれる、下層アストラル次元の特定の場所に拘留される。そして、自分と同じような犯罪を犯した者たちと共に、犯した罪の大小に応じて、かなり長い間そこに留まることになる。
 そのような場所で、犯した犯罪の場面を何度となく再体験させられるが、今度は犠牲者の苦悩をあたかも自分のもののように感じるので、その苦しみは最たるものだ。このような者は、お互いに苦しめ合ったりもするが、復讐に執着する進化の乏しい犠牲者の魂にもさいなまれる。
 犯した罪を自覚し後悔する兆候が見えると、より進化した魂によって「奈落」から救い出されて、救助所に運ばれ、回復の手当てを受ける。その後、自分の罪の更正のための準備に取りかかるが、それはまず霊界で始まる。一例を挙げると、自分と同じ状況にいる者たちの救出を手がけたりする。そして、機が熟して物理的な次元に転生すると、罪の償いに捧げる人生を送りながら、それを継続していくのだ。

*自殺について話されることはありますか?

 自殺は自分自身を殺すことに等しく、霊的には魂の成長の機会を無駄にすることになるので、否定的なことだ。それはまた、試験を欠席してしまうのと同じであるが、今回中断してしまったことは、次の転生で、再び立ち向かわねばならなくなるのだ。

*自殺者は霊的な次元で、どういう運命を辿るのですか?

 一般的には、混乱した状態で、繰り返し自分が命を絶った瞬間を思い出し、近親者の悲しみを自分のことのように感じるものだ。再体験を繰り返すうちに、自分の取った行動がいかに無意味なものであったかを意識するに至る。自覚して後悔し始めた兆しが見えると、彼らには新しい転生が準備される。それほど時間をおかないで生まれ変わることが多く、中断してしまった人生で越えなければならなかった試練と同じものに直面することになる。

*安楽死に関してはどうですか? 治癒の可能性のない病人や末期患者の場合のように、それを擁護できるケースがありますか?

 前にも言ったと思うが、生命とは神聖なもので、死が自然にもたらされる前に中断してはならないものだ。苦しみを避けてあげたいという善意からでも、命を打ち切るという行為は、霊的視点からは良くないことだ。
 苦境にいる人たちの命を全部終わらせてしまったら、誰もこの世にいなくなってしまう、と気づかないかね? 人が直面する状況はすべて、それが遺伝性の病気であろうと、半身不随であろうと、どれも、その魂を成長させる意味があるのだ。それらは、魂が生まれる前に選んだ試練なのだよ。
 寿命の前に命を中断させても、その人は別の機会に戻ってやり残した課題を終わらせる羽目になるので、全く助けとならない。苦痛を味わっている魂は、時折おじけて、命を断って逃げ出したいと思うことがあるが、安楽死によっては、その状況から抜け出すことはできない。

*でも末期患者の場合なら、安楽死を正当化できませんか?

 死にかけているのなら、死を早めることにどういう意味があるのかい? 自然に死なせてあげなさい。

*おそらく、苦痛を短くしてあげるためでしょう。多くの末期患者が耐え難い痛みを抱えていますから。

 ならば、痛みを緩和してあげなさい。だが、命を途絶えさせてはならない。

*では、永く昏睡状態にある場合はどうですか? その場合には安楽死を弁明できますか?

 いや、その場合でも擁護できない。人が肉体生を終え、この世を去らなければならない時には、霊界から助けが来て、なるべく早く身体から離脱できるようにしてくれる。でも肉体にまだ生命が宿っているのなら、その人生にまだ意味がある、ということだ。なぜなら、寿命が来て魂が肉体を脱ぐ瞬間が訪れたら、君たちが何をしようとも、その人の旅立ちを避けることはできないからだ。

*中絶について話しておかれることはありますか?

 このことについては前作で深く取り上げているので、ここで繰り返すのはやめておこう。犠牲となる胎児の顔を見ることもなく、その苦しみがわからないとしても、妊娠中絶が殺人であることに変わりはない。空襲を命じる者たちは犠牲者の顔を知らないが、それでその罪が軽くなるわけでないのと同じことだ。
 胎児に宿った魂は、拷問されて殺される人と同じくらい苦しむのだ。そんな苦しみを与えずに済めば、自分自身の子どもの死刑執行人となって、苦悩することもない。
 生命を尊重するのだ。生命は、進化のために与えられた非常に貴い天の恵みである。殺人、戦争、死刑、自殺、安楽死、中絶といった、どのような形であろうと、またいかなる理由があろうと、絶対に命を絶ってはならない。そうすれば、自分自身のためにも、他の人のためにも、多くの苦痛を回避できる。